ーあなたのために嘆き悲しむ方ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に、モレシェテ人ミカにあった主のことば。これは彼がサマリヤとエルサレムについて見た幻である。すべての国々の民よ。聞け。地と、それに満ちるものよ。耳を傾けよ。神である主は、あなたがたのうちで証人となり、主はその聖なる宮から来て証人となる。見よ。主は御住まいを出、降りて来て、地の高い所を踏まれる。山々は主の足もとに溶け去り、谷々は裂ける。ちょうど、火の前の、ろうのように。坂に注がれた水のように。これはみな、ヤコブのそむきの罪のため、イスラエルの家の罪のためだ。ヤコブのそむきの罪は何か。サマリヤではないか。ユダの高き所は何か。エルサレムではないか。わたしはサマリヤを野原の廃墟とし、ぶどうを植える畑とする。わたしはその石を谷に投げ入れ、その基をあばく。そのすべての刻んだ像は打ち砕かれ、その儲けはみな、火で焼かれる。わたしはそのすべての偶像を荒廃させる。それらは遊女の儲けで集められたのだから、遊女の儲けに返る。このために、わたしは嘆き、泣きわめき、はだしで、裸で歩こう。わたしはジャッカルのように嘆き、だちょうのように悲しみ泣こう。」

ミカ書1章1−8節

 

慰め、励まし、こうした言葉というのは本当に元気が湧く。でもその慰めの前には苦しみや苦労がある。だから慰められる、でしょ?聖書の中には厳しい神様の側面と、愛の神様の側面が表裏一体のようになっています。神様は愛、でも義です。でも義でありあいだから、神様のつくられたあなたを放置できない。私達は神様の愛情にあって生かされていることを覚え、生かされ、歩もう。この方があなたを導かれるから。

 

さて、ミカ書をこれから見ていきたいのですが、途中イエス様の誕生にまつわる預言があります。このミカ書の背景になりますが、古代イスラエル王国分裂後の、南ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に神様が遣わされた預言者ミカを通して神様が語られます。このミカが生まれた場所は↑にある通り、モレシェテという場所に当たるのですが、これがまた面白い場所で、紀元前701年にアッシリヤの王セナケリブが奪い、これをペリシテに委ねた地です。奪われ、占領された場所。そこ出身で、今エルサレムで、ユダが罪を犯した、神様から離れ続けていたゆえに遣わされたわけです。そういう意味では、自分の生まれ故郷を失った経験のある預言者。

 

世間のことなど何も知らない、お坊ちゃま、ではない、本当に苦労を背負って神様に遣わされた。後にセナケリブはヒゼキヤの時代に自分の地に引き返したところ、息子によって殺されるのですが、まだそれは起こっていない段階の時代。彼はアッシリヤの攻撃を知っている、故郷を奪われた。神様は守ってくれなかったじゃないか、どうしてそんな神様の言葉を伝える、遣わされなければいけないんだ、とは思わなかった。思って辞めるなら、ミカ書というものは残っていないでしょう。

 

でもそうではない。神様が伸ばされ続けていた御手を取らず、神様よりも良いものがあるでしょう、と離れていった北イスラエルの姿を知っている、だからこそ、南ユダに同じようになってほしくない、神様の恵みがあるんだ、ということをせつに訴えたかったのではないだろうか。

 

私たちが気をつけたいのは、自分になにか辛いことがあった時に神様に責任を押し付ける、神様はなぜ自分を助けないのか、と思う前に、神様のみ言葉に聞こう。これまで多くの預言書を今年は開いてきましたが、神様は語られる神様、聴かれる神様です。あなたの苦しみも叫びも全部知っている。でも放置される方ではなく私達に命を得てほしい、これこそが神様の願いであることを忘れてはいけない。神様はエルサレムに彼を引き寄せられたように、まあ預言者として、というのもありますが、それでも神様はご自身のもとに引き寄せてくださる方なのです。

 

神様は「これは彼がサマリヤとエルサレムについて見た幻である。すべての国々の民よ。聞け。地と、それに満ちるものよ。耳を傾けよ。神である主は、あなたがたのうちで証人となり、主はその聖なる宮から来て証人となる」と語り始めます。幻を見せられる、語られるから聴く、耳を傾ける、とても大事なことです。そんなざれごと、などと思わず、なにかの心理学とか、哲学とかの一つと思って馬耳東風のごとく聞き流すのではなく、私たちは問題を直視するのではなく、神様のなさろうとすることに目を向け、語られることに耳を傾けよう。神様は語られる。だから私たちは祈り、また御言葉に聴こう。神様は語られる。

 

では神様は何を見せ、語られたのか。「見よ。主は御住まいを出、降りて来て、地の高い所を踏まれる。山々は主の足もとに溶け去り、谷々は裂ける。ちょうど、火の前の、ろうのように。坂に注がれた水のように。これはみな、ヤコブのそむきの罪のため、イスラエルの家の罪のためだ。ヤコブのそむきの罪は何か。サマリヤではないか。ユダの高き所は何か。エルサレムではないか。わたしはサマリヤを野原の廃墟とし、ぶどうを植える畑とする。わたしはその石を谷に投げ入れ、その基をあばく。そのすべての刻んだ像は打ち砕かれ、その儲けはみな、火で焼かれる。わたしはそのすべての偶像を荒廃させる。それらは遊女の儲けで集められたのだから、遊女の儲けに返る」と。

 

強烈な裁きの言葉ですね。しかし、これをきちんと見ると、神様は御住まいを出て、降りてこられる。問題に対して、わたしは知らん、と無視をするわけでもなく、放置するわけでもなく、上からなんとなく眺め、何となく助けるのではなく、具体的に行動される神様だということがわかりますよね。そして罪、自分たちに苦しみを注ぐものに対して神様は対処されることも見えてきます。

 

聖書には「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である」という言葉があります。神様が、主であり、神様が御心を成し遂げてくださるから復讐する必要などない、私達は神様を愛し、神様に身を委ねることを訴えられたのです。神様がすべてを成し遂げてくださる。逆裁きだ、厳しい方だ、という前に、もし私達のうちに問題があるなら、これを神様は一度砕き、立て直してくださる。そうでしょう?壊れたものの上にまた何かを築いて何になりますか?裁きは、回復へのプロセスでもあるのです。神様厳しい!と思う中に神様のあなたへの愛、回復への思いが込められている。

 

↑の預言は1章の途中ですが「このために、わたしは嘆き、泣きわめき、はだしで、裸で歩こう。わたしはジャッカルのように嘆き、だちょうのように悲しみ泣こう」としめられていますが、このわたし、とは誰ですか?あなたですか?違います。神様です。神様があなたのために嘆き、泣きわめき、裸足で、裸で歩こう、というのです。神様としては信じられない姿でしょう。

 

しかし神様は神であられるのにその有り様を捨てられないとは思わず、その権威の帯を脱ぎ捨て、人となって生まれてきてくださった。イエス様です。イエス様が神様としてはありえないような姿となり、同じ重荷を背負われ、ともに喜び、共に涙を流される。あなたのためなら嘆き悲しむだけで終わらず、私達のために行動を起こされる。救うためなら、ご自身のもとに引き寄せるため、御子イエス様を十字架にかけ、身代わりに罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせたことによって、このイエス様の十字架からの招木の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を湯るし、神様のことして迎え入れてくださる。苦しみの、墓の中からひきだしてくださる。新しくしてくださる。

 

私たちはこの神様の素晴らしい愛に包まれ、生かされるのです。神様はあなたとともに歩んでくださるために、降りてこられた。全てをなげうってでもあなたのためにいのちを惜しまない。今日私たちはこの神様の愛、導きに従い、歩もう。神様の語られる、見せられるなにかに信頼し、今日も歩もうではありませんか。