ー一新:楽しみ喜ぶ日へー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。彼らは昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。他国人は、あなたがたの羊の群れを飼うようになり、外国人が、あなたがたの農夫となり、ぶどう作りとなる。しかし、あなたがたは主の祭司ととなえられ、われわれの神に仕える者と呼ばれる。あなたがたは国々の力を食い尽くし、その富を誇る。あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる。まことに、わたしは公義を愛する主だ。わたしは不法な略奪を憎む。わたしは誠実を尽くして彼らに報い、とこしえの契約を彼らと結ぶ。彼らの子孫は国々のうちで、彼らのすえは国々の民のうちで知れ渡る。彼らを見る者はみな、彼らが主に祝福された子孫であることを認める。わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。地が芽を出し、園が蒔かれた種を芽ばえさせるように、神である主が義と賛美とを、すべての国の前に芽ばえさせるからだ。」

イザヤ書61章1−11節

 

よく生まれ変わった気持ちで、という言葉を聞きますが、人は自分では生まれ変われないし、者の例えにしても、どう生まれ変わりますか?結局世間への心遣いや、それこそご機嫌取りなどで結局疲れ果ててしまう。あるべきあなたには自分ではなることは出来ない。しかし神様はあなたを回復させてく出さる。あなたが立ち返るなら。あなたは今日、神様に何を求めるでしょうか。

 

さて、↑は紀元前に神様の言葉を預かり、語る、時にそのように行動する預言者イザヤが残した書。神様が彼を通して語られた言葉になります。時代としては、ウジヤ(アザルヤ王)〜ヒゼキヤ王が統治していた時代のこと。イザヤは前半の書では悔い改めを進め、神様に立ち返るように、バビロンに捕囚される事を告げていきます。しかし後半からは回復の預言、解放と回復の預言を告げていくのでした。

 

ご機嫌取り?違う。それなら、裁きのメッセージなど語らず、人の耳にいいことだけを語るでしょう。でも神様は、人の耳にいいことではなく、人が命を得、回復し、神様の恵みに満ち溢れることを願い、語られるのです。だから時には人の耳には直球過ぎて痛すぎるように感じるかもしれません。しかし、痛い、と感じるということはそこに神様のみ思いがまさに届いているのです。それは↑に特に現れているのではないでしょうか。

 

捕囚される、見捨てる、というわけではなく、回復の約束をイザヤに神様は幻を見せ、このように語ります。「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである」と。

 

これは、イザヤが実行する、ということではありません。実際にこれをなされるのは御子イエス様です。その日がかならず来る、と約束されたのです。実際のこれが語られた時代はまさに、バビロンに苦しめられていた時代。そして捕囚の宣言もされている。しかし、神様は見捨てていない。神様の霊が、この約束を宣言された。神様が宣言されるということは、これは取り消すことはない。曖昧なことを神様は言わないしされない。

 

もちろん、イザヤを通して語られるこの言葉に希望を私たちは抱きます。まさに、良い知らせでしょう。「捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである」なんて。イエス様が来るまで、それが起こらないわけではない。この希望にすがり、神様に立ち返る、その人の内に、神様の霊が豊かに望み、癒やされる。もちろんバビロンからの解放もそうですが、私たちの心が囚われている思い煩い、また何より罪からの釈放を告げられる。

 

何という恵みだろう。神様はイエス様が来る前にもこの宣言をされたのは、まさに神様の霊が、御目が彼らの内に注がれているということ。それは今も変わらない。あなたがどんなところに囚われていようとも、傷ついていようとも、悲しみの冠を被って支配され思い煩おうとも、神様は喜びと賛美の歌声を挙げさせてく出さる、その日を迎えさせてくださるのです。

 

まさに逆転の日が来る。「彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。彼らは昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。他国人は、あなたがたの羊の群れを飼うようになり、外国人が、あなたがたの農夫となり、ぶどう作りとなる。しかし、あなたがたは主の祭司ととなえられ、われわれの神に仕える者と呼ばれる」とイザヤを通して神様が語られるように。神様が、植えられ、育てられる、建て直され復興させてく出さる。一新、すべてが逆転される。神様は、恵みの日に招きたい。一日だけではない、新しく回復される一瞬一瞬、毎日、世の終わりまでです。

 

もちろん、現実彼らがバビロンの驚異にさらされていたように問題は私たちの前にはあります。しかし、神様はもうこれを宣言され、あなたを招かれているのです。神様は「わたしは不法な略奪を憎む。わたしは誠実を尽くして彼らに報い、とこしえの契約を彼らと結ぶ。彼らの子孫は国々のうちで、彼らのすえは国々の民のうちで知れ渡る。彼らを見る者はみな、彼らが主に祝福された子孫であることを認める」と仰られる。

 

あなたから不法に神様の愛、恵みを、奪い去るサタンを憎み、これを打ち砕くため、神様は御子イエス様を使わされた。そして、イエス様にあなたの思い煩いも痛みも、何より罪も一切背負わせ、十字架にかけて死なせたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、イエス様のこの十字架の前に立ち返るすべての人にこの契約を結ばれる、神様のことされる。その中に神様の恵みが、どんな場面にあろうと溢れさせて下さるのです。神様は誠実な方、命をかけてその誠実を果たされ、神様が最後にイザヤを通して語られた「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。地が芽を出し、園が蒔かれた種を芽ばえさせるように、神である主が義と賛美とを、すべての国の前に芽ばえさせるからだ」というこの約束、私たちは希望を抱こう。

 

イエス様にあって私達は救いの衣、イエス様の恵みを着させていただける、栄光の冠、神様の子としての栄冠をかぶらせていただける、神様が花嫁のようにその御心を持って宝玉で飾り、芽を出させてくださる。神様の栄光があなたの置かれたところにあって目を芽生えさせてくださる。あなたは一人ではない。この誠実なる神様が成し遂げられることに大いに期待し、歩もうではありませんか。そこに見る神様の御業、栄光を仰ぎ見させていただこうではありませんか。