ー生きて!ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「イスラエルの家よ。聞け。私があなたがたについて哀歌を唱えるこのことばを。『おとめイスラエルは倒れて、二度と起き上がれない。彼女はおのれの地に投げ倒されて、これを起こしてくれる者もいない。』まことに、神である主はこう仰せられる。『イスラエルの家で、千人を出征させていた町には百人が残り、百人を出征させていた町には十人が残ろう。』まことに主は、イスラエルの家にこう仰せられる。『わたしを求めて生きよ。ベテルを求めるな。ギルガルに行くな。ベエル・シェバにおもむくな。ギルガルは必ず捕らえ移され、ベテルは無に帰するからだ。』主を求めて生きよ。さもないと、主は火のように、ヨセフの家に激しく下り、これを焼き尽くし、ベテルのためにこれを消す者がいなくなる。…私は、あなたがたのそむきの罪がいかに多く、あなたがたの罪がいかに重いかを知っている。あなたがたは正しい者をきらい、まいないを取り、門で貧しい者を押しのける。それゆえ、このようなときには、賢い者は沈黙を守る。それは時代が悪いからだ。善を求めよ。悪を求めるな。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたが言うように、万軍の神、主が、あなたがたとともにおられよう。悪を憎み、善を愛し、門で正しいさばきをせよ。万軍の神、主は、もしや、ヨセフの残りの者をあわれまれるかもしれない。…』」

アモス書5章1−14節

 

生きるのが辛い人にとって、「生きて!」というタイトルは少々酷なのかもしれない。生きるってなんだろう。というよりも私たちは生かされる。いろんな関係の中で。でも、その本質は神様農地にこそ生きる場所がある。いや、神様があなたを生かされるのだ。生かしてくださるのだ。緑の牧場に憩わせてく出さる。しかし、私達がここから離れてはどうにもならない。神様はひとりとして滅びることが無く永遠の命を私たちが、あなたが得ることを願い、御子イエス様を与えられた。今日、私たちはこの神様の中に憩い、養われ、導かれ、歩もう。

 

さて、↑は紀元前、イスラエル王国が分裂し、まだアッシリヤに捕囚される前の時代に、アモスという人を通して神様が語られたことば。アモスを通して、というと相当すごい人なのか、と思ったら、実は他の預言者と違って、特別な訓練を受けているわけでもない、ある意味では孤立無援の状態でした。更には農民であり、さらに羊飼いをしていました。羊飼いというのは最下層の仕事とも言われているほどだった。

 

当時のイスラエルはそのような貧しい人たちをも顧みず、また神様を、神様のみことばを、異国人たち(異邦人と彼らは呼ぶ)に、本来祝福の源になるべき民のはずが、かえって悪い影響を流してしまった。それゆえに、最下層のアモスという一人の農民を神様は用いられた。なぜ彼という人を用いたのかは神様しかわからない。それが神様の召しというものだから。しかし、ただ言えることはそのような聴き、困難な中にあっても神様は目を留めておられる、ということ。他にも当時預言者は何人もいた、でもその彼らではなく、アモスを今用いようとした、ということは神様は有名な誰かだから用いる、というわけではない、一人ひとりに目を留め、また生きてほしい、一人ひとりに恵みを、注がれるのです。あなたもですよ?

 

ということで、神様はアモスを通して「哀歌」を語った。ここでは。前半部で前半の方では、彼らと、またその周辺国への裁きについて語られていたのですが、この直前の4章では、悔い改めて生きよ!と宣告されていた。その続き。「おとめイスラエルは倒れて、二度と起き上がれない。彼女はおのれの地に投げ倒されて、これを起こしてくれる者もいない」と。

 

あまりに強烈なことば。どう見ても希望の持てることばではない。裁きの内容でもある。でも、神様にしたらこれは「哀歌」だったのです。宣告、裁き、とは言わず、哀歌。哀しみの歌。神様からしたら、私たちが神様から離れていくことを哀しむ。起き上がれない状態、彼らの時代で言ったら、アッシリヤ捕囚に向かっていく、この状況になることを哀しまれる。だから神様はその前に、なんとか悔い改めて、神様の恵みの中に生きてほしい、とあるいみでは懇願のように、哀しみを訴えるのです。

 

更に神様は、今度は仰せられます。「イスラエルの家で、千人を出征させていた町には百人が残り、百人を出征させていた町には十人が残ろう」、このままではこうなっていってしまう、と。神様は私達を作られ、命の息吹を与えてくださった。ある意味では親、だからどうして滅びゆく、誰かがけ連れ去られることを望むだろう。羊飼いなら、その多くが連れ去られて我慢できるだろうか。命をかけて守って養い、導く羊飼いが。

 

だから神様は「わたしを求めて生きよ。ベテルを求めるな。ギルガルに行くな。ベエル・シェバにおもむくな。ギルガルは必ず捕らえ移され、ベテルは無に帰するからだ」と訴えるのです。先程も書きましたが、これらの都市は問題のある都市だった。物質的には裕福。貧しいからそこに助けを求めに行っても、良い人脈を求めて行っても、彼らは罪に満ちている状態だった。無に帰する、というのはある意味で、あの有名なソドムとゴモラの町々が消え去ったような言いようですよね。それほどにひどかった。生きてほしい、けど、そこまで。

 

私たちは欠けがあれば、なぜ神様は助けてくれないんだ、と絶望に行くか、別な何かを求めて走っていく。でもじゃあ神様は何も与えないのか?神様は養われないのか?目を留めておられないのか?ならアモスを用いることはしなかっただろう。

 

イエス様はこう仰られた。「自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。…なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。…きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。…しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」と。

 

実は神様は↑の中で、理性的に、心情的に、全身全霊を持って生きる、神様を求める事を訴えています。裏を返せば、神様はそのように私達を生かしてく出さる。すべての必要を満たし、理性的にも心情的にも、全身全霊を持ってあなたを生かす、養われる。羊飼いが羊を命がけで24時間守るように。神様はあなたの苦労、問題、様々なものと戦ってく出さる。

 

私たちが様々なことに囚われ、滅びゆくこと、死に行くことを我慢できない神様は、全身全霊、全てをあなたにぶつけ、あなたではなくイエス様を十字架にかけ、死なせた。しかし、3日目によみがえらせてくださったことによって、裁きの門、救いの門、狭く見える門をくぐった先にある、神様の食卓、緑の憩いの場に私達を招いて下さる、神様の子として。イエス様の十字架の前に悔い改めるなら。復活の、あなたのために命をかけられたイエス様があなたとともに、世の終わりまで、全身全霊を持ってあなたを導かれる。

 

明日のことは、今この瞬間のことは、神様がすべて備えてくださっている。だから私たちはこの神様に委ねようではありませんか。この命の門をくぐらせていただこうではありませんか。ここから命の道が、天に向けて、続いていく。イエス様があなたの手を取り、一緒に導きながら。神様の全身全霊の愛を受け、私達も全身全霊、神様に委ね生きようではありませんか。