この道は | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

ああ、と代わり映えのしない、どうしてこうなんだろう?

と嘆くそんなあなたへ、1冊のほんの一部を↓に紹介します。あなたがどれだけ素晴らしい道を歩ませていただけているのか、それが少しでもあなたの助けになれば、と祈ります。

 

以下その本の内容。

 

「ああ」と、私たちは云う。「毎週毎週、代わり映えもしない繰り返しだ」。それが、自分の人生に対する私たちの態度であり、私たちは倦んでしまうのである。

 

もしあなたがキリスト者生活を物憂い大儀なお勤めとみなしているとしたら、あなたは神を侮辱しているのである。もしあなたや私が、このキリスト者生活の何らかの面を、大儀なお勤めや義務とみなすようになるとしたら、また、もし自分を無理矢理追い立てたり、歯を食いしばったりしなくてはこの生活をやり抜くことができないとしたら、私たちは神を侮辱しているのであり、キリスト教の真髄そのものを忘れてしまったのだと云いたい。

 

キリスト者生活は、大儀なお勤めではない。キリスト者生活だけが、人生という名に価するものである。これだけが義であり、聖であり、純真であり、善である。これこそ、神の御子ご自身がお送りになった種類の生き方である。それは、神ご自身のように聖なる者となることである。だからこそ私はそう生活すべきなのである。

 

私は、単に一大努力をしてどうにか頑張ろうと決心するのではない。いかにして私はこの生活に入ったのだろうか?

 

今の私がぶつくさ云い、不平を鳴らし、辛く困難だと感じているこの生活に。答えは一つしかない。神のひとり子が天国を離れて、私たちの救いのために地上に降られたからである。主は、ご自分の永遠の栄光の記章をことごとく脱ぎ捨てて、幼子として生まれ、飼い葉桶の中に置かれるほどへりくだられた。33年間、この世での生活を耐え忍ばれた。つばきを吐きかけられ、罵声雑言を浴びせかけられた。頭には茨を突き刺され、十字架に釘づけられて、私の罪の罰を負ってくださった。そのようにして私はここに至ったのである。

 

「善を行うのに飽いてはいけません」。

愛する方々。もしあなたが自分のキリスト者生活について考えるとき、こうした恨みの念をいだくとしたら、あるいは、それを倦み疲れる大儀なお勤めか義務とみなすとしたら、私はあなたに命じる。あなたの人生の始まりへと立ち戻るがいい。あなたが通り抜けた、あのくぐり門へと引き返すがいい。この世がその悪と罪にまみれている姿を眺めるがいい。それから、前方を眺めて、悟るがいい。あなたが、人として参加できる中でも最も栄光に富む作戦の真ん中に配備されていることを。また、この世がこれまで知った中でも最も高貴な路に立っていることを。

 

ーこの道は主人が通られた道ー  

D.M.ロイドジョン