「さあ、誉れ、気高さで身を装い、尊厳と威光を身につけよ。あなたの激しい怒りを吐き散らし、すべて高ぶる者を見て、これを低くせよ。すべて高ぶる者を見て、これを押さえ、悪者どもを、その場で踏みにじれ。彼らを共にちりの中に隠し、その顔を隠れた所につなぎとめよ。そうすれば、わたしはあなたをたたえて言おう。あなたの右の手があなたを救えると。さあ、河馬を見よ。これはあなたと並べてわたしが造ったもの、牛のように草を食らう。見よ。その力は腰にあり、その強さは腹の筋にある。尾は杉の木のように垂れ、ももの筋はからみ合っている。骨は青銅の管、肋骨は鉄の棒のようだ。これは神が造られた第一の獣、これを造られた方が、ご自分の剣でこれに近づく。山々は、これのために産物をもたらし、野の獣もみな、そこで戯れる。彼ははすの下、あるいは、葦の茂みや沼に横たわる。はすはその陰で、これをおおい、川の柳はこれを囲む。たとい川があふれても、それはあわてない。その口にヨルダン川が注ぎ込んでも、動じない。だれがその目をつかんでこれを捕らええようか。だれがわなにかけて、その鼻を突き通すことができようか。」
ヨブ記40章10−24節
ゲームが好きな方なら、ベヒーモスとか、リバイアサンなんて名前は聞いたことがあるかもしれませんが、実はこのヨブ記の中にこの2体の恐竜が登場するんです。まあ不思議と子どもたちにこの恐竜が人気があるわけですが、私たちはなにかに憧れるのは言い、でもそれを造られた神様を私たちは見上げよう。神様は展示物ではなく、生きた、あなたを生かし導く神様なのだから。
さて、↑はイスラエル民族発祥の少し前の時代に生きていたヨブという人が苦難にあった時に神様が答えている場面。ヨブは神様を心から愛し、絶えず祈り、いつも感謝していた。財産が奪われ、子が失われた時でさえ神様を褒め称えた。ヨブは神様がいる、「私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを」知っている、この方に全てを委ねようと心を注ぎだします。神様も彼ほど正しい人はいない、と称されています。
サタンはしかし、何か苦難困難でもあれば神様を人間は、ヨブは神様を呪うに違いないと、ヨブの財産や家族、健康など奪い、ヨブに神様を呪わせようとします。神様なんて信じたって意味はない、と神様にある希望から引き離そうとしてくるのです。
そんな悩んでいるヨブの元に3人の友人がヨブを慰めに来ますが、ヨブを慰め励まし共に祈るどころか、因果応報論や勧善懲悪、自分の経験等による知識等によってヨブを苦しめます。ヨブはそれでも、神様がやがて彼を栄えに満ちた喜びの日へと導かれると希望を持っていましたが、友たちは持論で説き伏せようとします。それでもヨブは神様にこそ知恵があり、今は苦しい、でもこの知恵にあって今まで生かされてきた、この神様と話したい、と訴えます。
その彼の前に、エリフという若者が神様について、彼の心を整えるべく御霊に導かれ語ります。そしてエリフの話が終わった後、神様が登場します。神様はここまで、この天地を造られた神様が治め、地を作られた神様が用意された恵みの場所に私たちを導き治める、神様の御心の中に招かれている事を、どんなに驚異的な状況にあろうと、神様が希望の光を持って導かれる、喜び・命の衣を神様が着せてくださり、生かし続けて下さる、だからこの方に委ねる事を観ました。↑はその神様のヨブへの語りかけの続き。
さて、今日の箇所に登場する恐竜、それは「河馬」と書かれた言葉です。これは厳密にはベヘーモートと、当時の言語では読むのですが、よく考えてみると、カバが「見よ。その力は腰にあり、その強さは腹の筋にある。尾は杉の木のように垂れ、ももの筋はからみ合っている。骨は青銅の管、肋骨は鉄の棒のよう」ですか?その言葉通り想像したら、どんな姿になるか。昨日も分かち合ったように、神様は現実に存在しないもので例えてきてもピンときませんからしません。ヨブはこれを見ている。その上で神様は訴えているわけです。
いきなり横道にそれましたが、ある意味で人はそうしたあこがれの対象に近づこうと真似をする(恐竜になるならないは別として)。神様は↑でこう仰られます。「さあ、誉れ、気高さで身を装い、尊厳と威光を身につけよ。あなたの激しい怒りを吐き散らし、すべて高ぶる者を見て、これを低くせよ。すべて高ぶる者を見て、これを押さえ、悪者どもを、その場で踏みにじれ。彼らを共にちりの中に隠し、その顔を隠れた所につなぎとめよ。そうすれば、わたしはあなたをたたえて言おう」と。
私たちは一体どれだけ偉いのだろうか。なんとか自分を着飾ろうと様々なもので着飾ろうとする。しかし、どれだけ私たちが着飾ろうとしても、本当の私たちにはなれないですよね。飾りは飾りに過ぎない。どんなに自分でカスタマイズしようとしても。神様は、そんなに神様のなさろうとしていることが信じられないなら、じゃあ自分でしてみなよ、と分かりやすくいうと仰られるわけです。しかし、一体誰が神様の代わりになれるだろう。自分のほうが優れている、と知識、知恵を用いようとして、どうなるだろう。踏みにじれ、抑え込め、と言われてできるならとっくにできている、でもできないのです。
そこで神様は、カバ=ベヒーモス、ヨブが見るこれの例えを出してくるのです。普通のカバなら別に飼育員さんとか人でも捉えることができますが、↑の特徴のあるベヒーモスを捉えることなどとてもできません。「だれがその目をつかんでこれを捕らええようか。だれがわなにかけて、その鼻を突き通すことができようか」と神様がおっしゃるとおりです。
私たちは自分で頑張ろうとしすぎる。神様を信頼していないのか、神様の存在そのものを信じていないのか。しかし、作り主なる神様に不可能はない。このベヒーモスを造られたというなら、これを神様は制御できないはずがないのです。ちなみに、次の章に出てくるリバイアサンも、このベヒーモスも、サタンの象徴とも言われています。このヨブが今抱えている問題は、サタンが仕掛けてきた。しかし、サタンは神様の前には何もすることは出来ない。最高の被造物であったはずの元天使・ルシファー・サタンは神になろうとし、地に落とされた。
神様の目が届かないところ、神様の及ばないところはないのです。人には不可能であっても神様に不可能なことはありません。この確信を私たちは身にまとうべき。なにかに憧れ、それに似せようというなら、神様に目を向け、従う中で、私たちは少しずつ、月日と共にイエス様の似姿に変えられていくのです神様はご自分のイメージに似せて私たちを造ってくださったのですから。
憧れ、という点で似せていく事を先程から述べていますが、同時に、少し視点を変えて、諦めて、どうせだめだから、彼らに似ていこう、合わせていこう、この世と調子を合わせていこう、と考える必要はないのです。私たちはイエス様にあって取り戻された。この世の問題だろうが、憧れの存在に似せていこうとしようが、本来あるべきあなたの姿には決してなることは出来ない。私たちはこの神様の本来イメージして造られた最高の姿から、これはいらないや、と剥がしていってしまいあるべき姿を失った。世にあわせたりで。
しかし、イエス様が私たちの痛みも、悲しみも、罪も全て背負い十字架にかかられ死なれたのです。しかし3日めによみがえられたことによって、罪をこのイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し神様の子としてくださる。死から命へと取り戻されるのです。
このありえない程にあなたを愛されるイエス様があなたのうちに住まわれ、あなたを世の終わりまで導かれる。私たちはこのイエス様の命を、救いを、義の衣を着させていただき、この愛に刺し貫かれ、導かれ、歩もう。私たちの力で頑張ってアレコレするのではなく、主の御心がなることを切に祈り、従おうではありませんか。恐竜よりも力強く、また愛される神様に信頼し。
