「エリフはさらに続けて言った。あなたはこのことを正義によると思うのか。『私の義は神からだ』とでも言うのか。あなたは言っている。『何があなたの役に立つのでしょうか。私が罪を犯さないと、どんな利益がありましょうか』と。私はあなたと、またあなたとともにいるあなたの友人たちに答えて言おう。天を仰ぎ見よ。あなたより、はるかに高い雲を見よ。あなたが罪を犯しても、神に対して何ができよう。あなたのそむきの罪が多くても、あなたは神に何をなしえようか。あなたが正しくても、あなたは神に何を与ええようか。神は、あなたの手から何を受けられるだろうか。…人々は、多くのしいたげのために泣き叫び、力ある者の腕のために助けを叫び求める。しかし、だれも問わない。『私の造り主である神はどこにおられるか。夜には、ほめ歌を与え、地の獣よりも、むしろ、私たちに教え、空の鳥よりも、むしろ、私たちに知恵を授けてくださる方は』と。…訴えは神の前にある。あなたは神を待て。しかし今、神は怒って罰しないだろうか。ひどい罪を知らないだろうか。ヨブはいたずらに口を大きく開き、知識もなく、自分の言い分を述べたてる。」
ヨブ記35章1−16節
人は、私もそうなのですが、待つのが苦手。そして自分なりに進んで自分なりの利益を求める。でも本当の利益とは何なのだろう?お金?成功?神様を信じればなにか利益があるから信じるのか?このご時世、今何が起こっているのか、ただ利益だけを追い求めていても答えは見いだせない。神様が私たちを祝福される時、私たちは命を得る。神様が与えてくださる、注がれる。今この瞬間答えが見いだせなくても、信じても無駄、と思わず、神様を待ち望もう。見上げよう。神様の見させて下さる栄光を待ち望もう。
さて、↑はイスラエル民族が始まる少し前の時代に生きていたヨブの話。ヨブは神様を心から愛し、神様に祈り、いつも神様の恵みに生かされ歩んでいました。神様が、私たちを生かして下さる、だから私たちは生きた者となる、この事を忘れてはいけませんね。そんな彼を神様は喜ばれ、ヨブほど正しい人はいない、と仰られました。
しかしある時、神様からヨブを奪い呪わせたいサタンはヨブの財産や家族、健康など奪い、ヨブに神様を呪わせようとします。神様なんて信じたって意味がない、何の特、利益があるんだ?と。そんな中で3人の友人がヨブを慰めに来るのですが、ヨブを慰めともに神様に祈り励まし合うどころか、かえって因果応報論や勧善懲悪、自分の経験などによる知識等によってヨブを苦しめるのでした。
ヨブだってそんな事はわかっている、一見正しい部分もある事は。ただそれでもヨブはやがて神様が自分を栄えに満ちた喜びに立たせて下さると信じ希望を持った、待ち望んでいた。しかしそれでも、彼らは持論で説き伏せようとします。それでも、ヨブは神様にこそ知恵があり、今は苦しいけどこの知恵にあって今まで生かされてきた、自分は潔白なんだ、と主張します。
そこでエリフという人が現れ、3人のヨブの友の代わりに、御霊に導かれ、何かに媚びへつらうことなく語ります。これまでエリフは、ヨブが自分こそが正しい、義なんだ、と訴えてきたことに対して意見を述べ、それでも神様は偉大、ヨブが神様のうちにこそ知恵がある、というけど、そのまさに神様のうちにこそすべてがある。だからこそ、「聞き分けること」「選び取ること」「何が良いことであるかをみわけること」を、えこひいきをしない神様に委ね、力ある神様にへりくだり、待ち望む事を勧めます。↑はその続き。
エリフは更に続けます。「あなたはこのことを正義によると思うのか。『私の義は神からだ』とでも言うのか。あなたは言っている。『何があなたの役に立つのでしょうか。私が罪を犯さないと、どんな利益がありましょうか』と」と。実際にヨブがそう言っているのはヨブ記の中では見出すことはできない。確かに人を義としてくださるのは、自分でではなく神様が義としてくださる。
ただ一つ問題がある。罪を犯さなければ自分に利益がある、だから罪を犯さないのか、神様の恵みをしたい求め、罪から離れ、神様に立ち返り生きるか、大きな違いです。多分このご時世多くの人が疑問にぶつかっていると思う。神様を信じてなんになるんだ?と。こうなってほしいから神様を信じる、ではそれは神様を召使いのようにしか見えていない。違う、むしろ神様の前にへりくだる、古い、不安な思いも、罪も全部打ち砕いていただき、新しくしていただく、これこそが大事。その中にあって、あなたのうちにイエス様の命が、恵みが溢れ、そこからさらに恵みがあなたの周りに溢れ広がる。主体者が神様ならば一体どれだけの恵みがあふれることだろう。
このご時世、自分の想像し得る結果を求める以上に、私たちは目を地から、天に向ける必要があるのではないか。正直答えの見えない問題も多い。先日あるクリスチャンの方が、例のウィルスで天に召された、という話を聞きました。神様を信じているのになぜ?どうして?私の母も、ある問題に苦しむ教会の姉妹方を励まし、祈りまわっていたさなか、事故で突如天に召された。当時神学校に通っていた父が卒業したら、一緒に教会をする予定だったのに。なぜ?どうして?答えは正直見えない。
でも、その瞬間、今、見えなくても神様は私たちの目に見える、知り得ること以上の計画を持っておられる。それが何か、今はわからない。エリフは「天を仰ぎ見よ。あなたより、はるかに高い雲を見よ。あなたが罪を犯しても、神に対して何ができよう。あなたのそむきの罪が多くても、あなたは神に何をなしえようか。あなたが正しくても、あなたは神に何を与ええようか…」とヨブに訴えかける。神様はもちろん、私達が神様に立ち返ることを喜ばれ、その心を受け取られる。でも、私たちが神様を動かすのではない、立ち返るあなたに、御心を求めるあなたに神様が主体的に何かをなされる。どうやっても届かない、神様の計画を神様があなたを通してなされる。
エリフは「私の造り主である神はどこにおられるか。夜には、ほめ歌を与え、地の獣よりも、むしろ、私たちに教え、空の鳥よりも、むしろ、私たちに知恵を授けてくださる方は」とヨブに、私たちに問いかける。私たちはあまり日に目を向けすぎ、地の中で解決をしようとする。目に見える範囲でなんとかしようと試みる。結果を欲する。自分の言い分を並べて、結果を見ないと不平を漏らす。
しかし、エリフが言うように、私たちは神様を待つ。自分が何か義を行って、神様になにか利益を求めるのではなく、むしろ神様の利益というか、御心がなる、その中に神様の栄光が表され、すべての人が神様を主と告白する日を待ち望もう。利益追求ではなく、神様のみこころがなることを追求、祈り求めようではありませんか。
私たちは神様を一体どれだけ知っているだろうか。神様は驚くべき恵みを与えたい、と私たちの罪を取り払い、ゆるすため、御子イエス様を私たちの身代わりに十字架にかけ、死なせてくださった。しかし、3日めによみがえられたことによって、この十字架の前に悔い改め神様に立ち返るすべての人の罪を赦し、神様の子としてくださるのです。
そこまで愛される神様がどうして地にある利益程度のことをなすだろう。むしろこの命がけの愛を持ってあなたを愛された、この神様がなされるご計画、御業に大いに期待しよう。私たちが利益を求めるのではなく、神様がなされる御業のゆえに私たちはその栄光を見る、命を見るのだから。私たちには今はわからないことはある。でも神様は私たちを愛し、新しくされた、神様の子としてくださった。御子イエス様の命にかけて。
この空よりも大きな愛、海よりも深い愛、これに信頼し、待ち望み、歩もう。神様を私たちの役に立たせるのではなく、私たちを神様のお役に立たせてください、用いてください、と祈ろう。すぐに出ない答えが見えなくても、私たちの想像し得ない知恵が今も働いている。あなたはこれを信じますか?