ーいのちの値段ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「実に、神にとって、私はあなたと同様だ。私もまた粘土で形造られた。見よ。私のおどしも、あなたをおびえさせない。私が強く圧しても、あなたには重くない。確かにあなたは、この耳に言った。私はあなたの話す声を聞いた。『私はきよく、そむきの罪を犯さなかった。私は純潔で、よこしまなことがない。それなのに、神は私を攻める口実を見つけ、私を敵のようにみなされる。神は私の足にかせをはめ、私の歩みをことごとく見張る。』聞け。私はあなたに答える。このことであなたは正しくない。神は人よりも偉大だからである。なぜ、あなたは神と言い争うのか。自分のことばに神がいちいち答えてくださらないといって。神はある方法で語られ、また、ほかの方法で語られるが、人はそれに気づかない。夜の幻と、夢の中で、または深い眠りが人々を襲うとき、あるいは寝床の上でまどろむとき、そのとき、神はその人たちの耳を開き、このような恐ろしいかたちで彼らをおびえさせ、人にその悪いわざを取り除かせ、人間から高ぶりを離れさせる。神は人のたましいが、よみの穴に、入らないようにし、そのいのちが槍で滅びないようにされる。あるいは、人を床の上で痛みによって責め、その骨の多くをしびれさせる。彼のいのちは食物をいとい、そのたましいはうまい物をいとう。その肉は衰え果てて見えなくなり、見えなかった骨があらわになる。そのたましいはよみの穴に近づき、そのいのちは殺す者たちに近づく。もし彼のそばに、ひとりの御使い、すなわち千人にひとりの代言者がおり、それが人に代わってその正しさを告げてくれるなら、神は彼をあわれんで仰せられる。『彼を救って、よみの穴に下って行かないようにせよ。わたしは身代金を得た。』彼の肉は幼子のように、まるまる太り、彼は青年のころに返る。」

ヨブ記33章6−25節

 

昔、ある政治家は人の命は地球よりも重い、と言ったことがありますが、私達は神様の作品、地球どころの騒ぎではない、とても計り知れないものではないか。神様はどれだけそのあなたに心を裂き、あなたに命を得てほしい、と願っておられるか、知っているだろうか。私達の基準で神様がどうのこうのとケチをつける前に、神様がくださっているこの恵みに生きよう。

 

さて、↑は紀元前イスラエル民族が始まる少し前の時代に生きていたヨブの話。ヨブは神様を心から愛し、神様の恵みを求め生きていました。もしかしたら自分たちは知らずに神様に罪を犯しているかもしれない、と悔い改めの祈りを捧げることさえあった。そんな彼を神様はいつも目に留めておられ、ヨブほど正しい人はいない、と称されるほど。しかしサタンは人間がそんな聖いはずがない、とヨブの財産や家族、健康など奪い、ヨブに神様を呪わせようとします。神様なんて信じたって意味がない、まやかしなんだ、と苦しめる。

 

そんな中で3人の友人がヨブを慰めに来るのですが、ともに悲しみ、神様に祈り、神様の喜びへと向かっていこうと励ますどころか、かえって因果応報論や勧善懲悪、自分の経験などによる知識等によってヨブを苦しめる。ヨブもそんなことはわかっている、それでもやがて神様は栄えに満ちた喜びに立たせてくださる、と信じ希望を告白します。しかしそれでも、彼らは持論で説き伏せようとする、その中にあってもヨブは神様にこそ知恵があり、その知恵にあって生かされてきた、でも今苦しんでいる、でも自分は潔白なんだ、と主張します。

 

このヨブの主張の前に3人の友人はもう何も言えなくなりました。そこで突如エリフという人が現れ、彼の前に何も言えなくなった3人のヨブの友の代わりに、というよりも、自分の言いたいことを言える番がようやく回ってきた、というよりも、御霊に導かれ、今何を言うべきなのか、それを媚びへつらうことなく語り始めます。

 

神様がおそらくエリフを遣わしたのでしょう、彼を通して語る言葉は決して、ヨブを屈服させ、脅し、圧し、荷を重くするために語るものではない、神様は語られる神様、土塊に過ぎない私達のためにさえ、私達を愛し、命を得てほしい、と願っておられる。自分が正しい、義だ、と言って本来神様から受けられるはずの恵みをのがしていく、ことを望まない。

 

人は自分が正しい、と決めると他の人の意見を受け入れづらい。しかし、「神は人よりも偉大」なのです。これを高慢と捉えるか。あなたはどうでしょう。むしろ私達は神様によって造られた存在、どうなろうとも勝手に神様から離れた身であるし、土塊に過ぎない私達、どうして造り主なる神様に文句を言えるだろう。

 

ただ一方で、エリフは、いや彼を遣わされた神様は確かにヨブの話を聞いておられた。エリフは自分は優れているんだから、私の言うことを聞きなさい、とは言わなかったし、彼のうちに、舌に言葉を置かれる神様は、「神にとって、私はあなたと同様だ。私もまた粘土で形造られた」という。こんな土塊に過ぎない私達、しかしそれでも神様は義人の上にも悪人の上にも義の太陽を昇らせたい。同じように神様の恵みを注ぎたい。このようなヨブ、私達にさえ、神様はその御目を注がれているのです。

 

この後、アブラハムというイスラエルの始祖となる人物にスポットが当てられていく。でも、神様は、誰か偉大な人、正しい人だけに目を向け、耳を向けておられるわけではない。そしてエリフが「神はある方法で語られ、また、ほかの方法で語られるが、人はそれに気づかない。夜の幻と、夢の中で、または深い眠りが人々を襲うとき、あるいは寝床の上でまどろむとき、そのとき、神はその人たちの耳を開き、このような恐ろしいかたちで彼らをおびえさせ、人にその悪いわざを取り除かせ、人間から高ぶりを離れさせる。神は人のたましいが、よみの穴に、入らないようにし、そのいのちが槍で滅びないようにされる」というように、あらゆる方法を持って神様は、私達が気づかないだけでその恵みを注いでくださっているのです。病床にあろうと、疲れに打ちひしがれようと、重く伸し掛かる問題をも神様は取り除かれる、悪を退けてくださる。私達の魂が陰府に降ることがないようにその見てを伸ばされるのです。

 

一方で強烈なことも彼は語ります。いや神様は彼を通して語ります。「あるいは、人を床の上で痛みによって責め、その骨の多くをしびれさせる。彼のいのちは食物をいとい、そのたましいはうまい物をいとう。その肉は衰え果てて見えなくなり、見えなかった骨があらわになる。そのたましいはよみの穴に近づき、そのいのちは殺す者たちに近づく」と。こっちは怖いですね。

 

確かに人が神様から離れ、世に捕われていけば、痛みを負い、疲れ衰え果る、命が、魂が削られるような日々もある。しかし、神様は偉大。神様は高慢なのではない、その私達を見捨てるのではなく、むしろ「もし彼のそばに、ひとりの御使い、すなわち千人にひとりの代言者がおり、それが人に代わってその正しさを告げてくれるなら、神は彼をあわれんで仰せられる。『彼を救って、よみの穴に下って行かないようにせよ。わたしは身代金を得た』」というように、御子イエス様を私達の身代わりに十字架にかけ、身代わりに死なせたその命を身代金として支払われ、私達を救わんと実行に移されたのです。そして3日めにイエス様がよみがえられたことによって、この十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、神様の子としてくださるのです。

 

エリフは言う。「なぜ、あなたは神と言い争うのか。自分のことばに神がいちいち答えてくださらないといって」と。私達は神様と言い争う必要はない。かと言って黙っている、というわけでもなく、これほどまでに愛される神様に祈り、導かれ歩もう。私達の知らない中で神様は私達の「肉は幼子のように、まるまる太り、彼は青年のころに返る」ようにしてくださるから。神様が作り変えてくださり導かれる、なんと感謝なことか。あなたはこのイエス様の命という代価を持って買い戻された。これがどれほど偉大な愛なのか今日、いま一度覚え、このイエス様に信頼し歩もうではありませんか。