本物と偽物:自分好みに着せ替えない | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

感じの良い中産階級の日本人のようなイエス(原文は言っている人がアメリカ人ですが、読まれている方は日本人なので、あえて日本人に置き換えています)。物質主義にも目をつぶり、持っているものをすべて捨てろ何て言わないイエス。イエスだけを愛するために最も親しい人々とも別れろなんて言わないイエス。快適な生活を邪魔せず、表面的な献身でも許してくれるイエス。イエスはありのままの私たちを愛してくださる方なのだから。革新的(ラディカル)な信仰を避け、バランスのとれた信仰を持つことを望むイエス。私たちに快適で豊かな生活をもたらし、クリスチャンのジャパニーズドリーム話を実現させてくれるイエス。

 

しかし、あなたも私も、この時点で自分たちが何をしているのか気づいているだろうか。自分好みのイエスの姿に着せ替えているのだ。イエスの姿がますます自分に似てくる。結局のところ、私たちは、自分とつき合うときが一番気楽だからだ。今さらされている危険は、私たちが教会堂に集まって手を挙げて賛美をしている時、実は聖書のイエスではなく、自分自身を礼拝しているかもしれないという危険である。

 

ーデイビッド・プラットー

 

*私達がもし自分好みに着せ替えても、それは自分の欲することしか得られない。下手をしたら得られないし、失うことだってある。しかし、イエス様はご自分の命をかけてあなたに最高のものを与えようとされた。なら、何を私達が勝手に着せ替える必要があるだろう?イエス様は偽物ではなく本物を与えられる。