「私は自分の目と契約を結んだ。どうしておとめに目を留めよう。神が上から分けてくださる分け前は何か。全能者が高い所から下さる相続財産は何か。不正をする者にはわざわいが、不法を行なう者には災難が来るのではないか。神は私の道を見られないのだろうか。私の歩みをことごとく数えられないのだろうか。もし私がうそとともに歩み、この足が欺きに急いだのなら、正しいはかりで私を量るがよい。そうすれば神に私の潔白がわかるだろう。もし、私の歩みが道からそれ、私の心が自分の目に従って歩み、私の手によごれがついていたなら、私が種を蒔いて他の人が食べるがよい。私の作物は根こぎにされるがよい。もしも、私の心が女に惑わされ、隣人の門で待ち伏せしたことがあったなら、私の妻が他人のために粉をひいてもよい。また、他人が彼女と寝てもよい。これは恥ずべき行ない、裁判にかけて罰せられる罪だ。実に、それは滅びの淵まで焼き尽くす火だ。私の収穫をことごとく根こぎにする。」
ヨブ記31章1−12節
目は口ほどに物を言う、ということわざがありますが、まあそのとおり、といえばそのとおり。じゃあ目に不自由がある方は?ポイントは、目と心は密着している。心の思いが目に向かう。たとえ不自由であっても何に心が向いているか、それで全然違ってくる。神様は私達の目を開かせ、その栄光を見せてくださる方。私達はこの神様に導かれ、歩もう。私達には先が見えなくても、その道を開かれ、道を照らされるのは神様だから。
さて、↑は紀元前イスラエル民族が始まる少し前の時代に生きていたヨブの話。ヨブは神様を心から愛し恵みをいつも求め、願っていました。そんな彼を神様はいつも目に留めておられ、ヨブほど正しい人はいない、と評されるほどでした。しかしサタンは人間がそんな聖いはずがないじゃない、とヨブの財産や家族、健康など奪い、ヨブに神様を呪わせようとしてきます。神様なんて信じたって意味がない、まやかしだ、と苦しめようとする。
まあ現実、神様を信じている人でさえ、もちろんこれを書いている私でも偉そうなことが言えないほどに本当にこれでいいのだろうか?と悩む時がある。そんなとき、じゃあ誰に心を向け、誰の声を聞くのか、従うのか。サタンの疑いという名の囁きか?与える神様か。そういう意味でも私達はいつも神様に心を注ぎだし、求め続けるがありますね。神様が道を開かれる。
話を戻し、ヨブはそれでも神様に心をを向け褒め称えていました。しかしサタンの手により健康まで奪われていき、ついにヨブも苦しみを口から吐露し始めます。そんな中ヨブを慰めようと彼の友たちはヨブのもとに来ましたが、だんだん彼を苦しめ始めます。長老格のエリファズは因果応報論、2人目のビルダデは勧善懲悪、最後の3人目のツォファルは持論の神様論を展開し、彼を責め、苦しめていく。ヨブはヨブで、理由もわからず苦しみ、神様に自分がいかに正しいのかを論じ合いたい、神様は私のことをわかっていないのではないか、と疑念を持ち始めます。しかしそれでも神様の保障、神様がやがて栄光の地に導き、栄えに満ちた喜びを得る日を迎えさせてくださる、必ず立ち上がらせてくださる日が来る、と信じ告白するのです。
その後も3人とのやり取りが続き、ヨブは最後の弁論をします。ここまでは知恵、そして過去の自分を神様はどのように導かれたか、そして現状の悩みを吐露しました。そして↑の章では自分自身の潔白さを弁論していきます。
ヨブはこう始めます。「私は自分の目と契約を結んだ。どうしておとめに目を留めよう。神が上から分けてくださる分け前は何か。全能者が高い所から下さる相続財産は何か」と。自分の目と契約をする、それはどういうことなのだろう。それはそれでも神様に従い、見上げよう、神様は最高の分前、相続財産をくださる、それに何が優れよう、というある意味での所信表明、決意の現れなのです。
少し話がそれますが、イエス様が人として生まれてこられ公の活動を始められたある日、こんなことを語られていました。「『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです」と。
また、「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう」ともイエス様は訴えられている。それほどに、目というのはとても大事な器官なのです。じゃあ目が不自由な人は?という点については序論で書いたとおり。要するに、目はただ見るだけの器官ではない、見たものは情報となり、自分の心に影響を有る意味で与える。また同時に自分の心が向けられる方向でもあります。
介護を知っている方はご存じと思いますが、食事というのは目から始まります。目で見て、そして口に入れて、ふさわしい形状に舌を使ってまとめ、咀嚼し、嚥下する。そして美味しければまあ食べ続けるでしょうし、美味しくなければ自分の心にも影響は与えるし、健康にだって影響を与える場合もあります。
そういう意味で、目は心と密接であり、むしろイエス様に心の目を向け、それを清めて新しくして頂く必要がある、そうして人の全身が神様にあって聖められていくわけです。私達がどんなに世のものに目を向け、心を支配されても、それがどうして神様の与えるものにまさることができるでしょうか。
おとめに目を留める、これにある意味31章全体が象徴されているようにも感じますが、この目を止めるという言葉は、色目を使う、ということです。それに対し、自分の所有物であるかのように考える。しかし、自分でこれがいい、と思って選び取っても、必ずしもそれが良いものであるとは限らない。神様が与えてくださる相続財産、これは全てに勝る、だから目と、神様に目を、心を向け続けよう、と契約をヨブは結ぶのです。
↑を見ると、まるで神様が監視している、見張っているように感じる人がいるかも知れない。いやクリスチャンでも、そうじゃない人でも、キリスト教はあれしてはいけない、これしてはいけない、旧約聖書は罰が多くて怖いとか、色々言われる。でもそうじゃない、↑の前半にあるように神様は十分な祝福を与えてくださっている、見張っているというよりも心配され、その道を導かれるのです。
↑では3つの罪について語っています。虚偽、貪欲、姦淫。もし〜なら〜になっても仕方がない、とヨブはこの3つの罪の中で告白している。そしてそうは歩んでいない、潔白なんだ、と主張する。でも、そんな完璧であるなど無理。だからこそ、ヨブ、そして私達の目は神様に目を向ける、信頼するという契約を結ぶ必要があるのです。完璧になって身の潔白を証明するのではなく、神様がその道を導かれ、開かれ、照らされるのです。その中にあって私達は本来あるべき姿へと聖められていくのです。
イエス様は私達の罪の身代わりに十字架にかかられ死なれた。しかし3日めによみがえられたことによって、イエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を許し、神様のことしてくださる、という契約を結んでくださった。その命にあって。
このイエス様にあって私達は新しくされる、導かれるのです。ヨブも私達も、神様の助け、聖霊様の導きにあって、この御子イエス様の命にあって、私達は相続財産、神様の子とされた恵みにあずかることができる。
潔白だからどう、ではなく、私達はこの目を、心を、イエス様に向け、その照らされる、開かれる、導かれる道を、信頼し、歩もう。自分でああだこうだ、ではなく、この復活のイエス様が世の終わりまで導かれる、与えられる恵みに生きようではありませんか。そこに命が、祝福が広げられていくから。
