「そこで私は考えた。私は私の巣とともに息絶えるが、不死鳥のように、私は日をふやそう。私の根は水に向かって根を張り、夜露が私の枝に宿ろう。私の栄光は私とともに新しくなり、私の弓は私の手で次々に矢を放つ。人々は、私に聞き入って待ち、私の意見にも黙っていた。私が言ったあとでも言い返さず、私の話は彼らの上に降り注いだ。彼らは雨を待つように私を待ち、後の雨を待つように彼らは口を大きくあけて待った。私が彼らにほほえみかけても、彼らはそれを信じることができなかった。私の顔の光はかげらなかった。私は彼らの道を選んでやり、首長として座に着いた。また、王として軍勢とともに住まい、しかも、嘆く者を慰める者のようであった。」
ヨブ記29章18−25節
不老不死、とかそういう思想が古今東西ある。いかに自分の権力を維持するか、楽しい時間を維持するか。名声を維持するか。でもそれは疲れないだろうか。しかし、私たちが神様を待ち望む時、新たに力を受け昇る。走り疲れず、歩いても転ばず、鷲のように昇る。私たちがたとえ敗北したように感じようとも、あなたを立ち上がらせ、新しくされる、全てを変えられる神様に心から信頼し、歩もう。
さて、↑は紀元前イスラエル民族が始まる前に生きていたヨブの話。ヨブは神様を愛し求め、神様の恵みを願っていました。ここに命がある、と。神様はそんなヨブほどに正しい人はいない、仰られるほど。しかしサタンは人間がそんな聖いはずがないじゃない、とヨブの財産や家族、健康など奪い、ヨブに神様を呪わせようと仕掛けてくるのでした。
それでもヨブは最初は神様に心を、目を、向け褒め称えていました。たとえ奥さんに呆れられても。しかしサタンの手により健康まで奪われていき、ついにヨブも苦しみを口から吐露し始めます。人はこういう場面に本当に弱い。いや、強いふりをするけど、やがて嵐が来れば倒れてしまう。
しかし、後の時代に現れるイスラエルの王ソロモンはこのように箴言を書き残します。「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる」と。友は倒れていても立ち上がらせてくださる、苦しみを、重荷を共に背負い、軛を一緒に背負い、立ち上がらせてくださるのです。そのリアルな友は、完全な友はイエス様にほかならない。
だからこそ、ヨブは真なる友、神様を求め祈るべきところ、彼の肉の友たちは、ヨブを慰めるどころか、長老格のエリファズは因果応報論、2人目のビルダデは勧善懲悪、最後の3人目のツォファルは持論の神様論を展開し慰めるどころかヨブを責め、苦しめていくのでした。ヨブはヨブで、理由もわからず苦しみ、神様に自分がいかに正しいのかを論じ合いたい、神様は私のことをわかっていないのではないか、と不安になり始めます。しかしそれでも神様の保障、神様がやがて栄光の地に導いて下さり、栄えに満ちた喜びを得る日を迎えさせてくださる、と信じ待ち望みます。必ず立ち上がらせてくださる日が来る、と。
その後も3人とのやり取りが続き、ヨブは最後の弁論をします。前の章では知恵について弁論していました。私たちの頼るところ、結局は神様なのだ、と。で、昨日というか↑の前の節では彼の過去の杵柄というか、神様との関係について述べていましたが、↑はその続きとなります。
ヨブは「そこで私は考えた。私は私の巣とともに息絶えるが、不死鳥のように、私は日をふやそう」と続けます。確かに、自分はやがて滅びるかもしれない、家も、肉に老いては。しかし、不死鳥・フェニックスのごとく、必ず日が増やされる、と確信を持ちます。彼の言葉は増やそう、と自分が増やすように見えますが、息絶えたならそんなことは不可能なのは言うまでもないでしょう。しかし、「増やされる」のです。誰によって?神様によってです。
過去、神様の栄光が満ち溢れていたことを昨日の箇所で見ましたが、その神様が私を立ち上がらせてくださる、こんなひどい状況であっても、そう告白するのです。どんな日が増やされる?ただ寿命が伸びるだけ?これはとても大事なポイントです。確かに私達は、特に日本では長寿が好まれる、今の私の職場でも、毎年敬老の日に表彰状が渡されている。
でも、ただ寿命が伸びても神様の栄光があふれる、恵みがあふれる、そのような日々が増し加えられなければ、やがて私達は疲れ、倒れる。立ち上がり、疲れ、倒れ、またなんとか頑張って立ち上がって…と繰り返していっても、それは疲れる。ヨブにしたって、今の彼の現状、財産も家族も奪われ、健康まで奪われた今、その状況だけが残って寿命が残っても大変。
生きているだけマシじゃないか、とある人は言うかもしれない。この辺は死生観の違いなのかな。ある私の知り合いのクリスチャンは、もし脳死状態(当時は心停止だったかな?)に娘がなっても延命治療はしない、と言っていた。なぜそんなことが言えるのか。でもそうじゃない、神様が迎えてくださる、神様のもとに安らげるから。そういう意味で本当に生きている、日数の多いのは、神様が共にいる、そのような日が増し加えられることこそ最高なのではないでしょうか。
しかも、ただ倒れたままではない、息絶えても立ち上がる、そんな表現を見るなら、どう考えても自分の力では立ち上がれない、誰かが立ち上がらせてくださる。神様が、私たちをもう一度立ち上がらせてくださるのです。
後の時代、アッシリヤやバビロンに苦しめられるイスラエルに預言する(神様から言葉を預かり語り、また行動する)イザヤという人はこのように預言しました。「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」と。自力でなんとか立ち上がろうとすれば、やがて疲れる。しかし、神様を待ち望むとき、私たちは、神様のみ力によって立ち上がらせていただき、鷲のように翼をかって登らせてくださる。自力じゃない、神様がその翼に乗せて。それ故に私達は倒れることはないのです。
ヨブは自分の過去の振り返りを「私の根は水に向かって根を張り、夜露が私の枝に宿ろう。私の栄光は私とともに新しくなり、私の弓は私の手で次々に矢を放つ。人々は、私に聞き入って待ち、私の意見にも黙っていた。私が言ったあとでも言い返さず、私の話は彼らの上に降り注いだ。彼らは雨を待つように私を待ち、後の雨を待つように彼らは口を大きくあけて待った。私が彼らにほほえみかけても、彼らはそれを信じることができなかった。私の顔の光はかげらなかった。私は彼らの道を選んでやり、首長として座に着いた。また、王として軍勢とともに住まい、しかも、嘆く者を慰める者のようであった」とまとめます。
これらはある意味では事実。しかし、大事なのは最初、根が、神様という水に向かって根を張る。イエス様の枝に私たちがつながる、そのとき、私達のうちに命が溢れ流れる。そこから神様の義、御心が弓を次々に放つ。相手や問題を打ち砕く、と言うよりもそれらを変えるために。語るべき言葉を教え、状況を変えてくださる。私たちが変えるのではない、あなたの内に住まわれるそれこそ、不死鳥のごとく蘇られた復活のイエス様、私たちの罪の身代わりに十字架にかかられ死なれ、3日めに蘇られた復活のイエス様が、これを成し遂げてくださる。
あなたがイエス様を救い主として受け入れる時、この復活の恵みに私達は預からせていただける。この復活のイエス様があなたの内に住まわれ、あなたを神様の子として養い導かれる。たとえ息絶えるようなことが続こうとも酒が、その翼に乗せて、私たちを導かれる。この復活のイエス様が新しくしてくださる、このいのちにあって増し加えられた日々を私達はどれだけ待ち望んでいるだろうか。私の日々ではない、私たちは神様の御心が現される一瞬一瞬、日々を祈り求めようではありませんか。倒れても立ち上がらせ、導かれる、不死鳥のように立ち上がらせるイエス様があなたを導かれるから。
