「ヨブは答えて言った。まことに、そのとおりであることを私は知っている。しかし、どうして人は自分の正しさを神に訴えることができようか。たとい神と言い争おうと思っても、千に一つも答えられまい。神は心に知恵のある方、力の強い方。神に身をこわくして、だれがそのままで済むだろうか。神が山々を移されるが、だれもこれに気づかない。神は怒ってこれをくつがえされる。神が地をその基から震わすと、その柱は揺れ動く。神が太陽に命じると、それは上らない。星もまた封じ込められる。神はただひとりで天を張り延ばし、海の大波を踏まれる。神は牡牛座、オリオン座、すばる座、それに、南の天の室を造られた。神は大いなることを行なって測り知れず、その奇しいみわざは数えきれない。たとい神が私のそばを通り過ぎても、私には見えない。神が進んで行っても、私は認めることができない。」
ヨブ記9章1−11節
「そんな事はわかっている」、この言葉はあきらめに続くか、けど、と希望に心を向けるか。これは大きな違いを生み出します。じゃあどこに希望を向けるのか?希望的観測?違う。神様はどこかの偶像のようなものではなく、生きた神様です。感情のある神様です。遠い神様ではなく近い神様です。私たちが勝手に離れるだけで。今日私たちは自分が神様のことを知らないことを認めつつ、神様のすばらしさをもっともっと知らせていただく、体験させていただきながら歩もう。神様はあなたに喜んで答えてくださるから。
さて、↑はノアの洪水からイスラエル民族の始祖となるアブラハムへの神様の語りかけの間の時代に生きていたヨブという人の話、というか悩み。彼は神様をいつも正しい意味で恐れ、神様こそ神だ、と信じ、神様なしでは生きられないことを知っていた。そして、もしかしたら息子は知らない間に罪を犯していたのではないか、と心配して、赦しを希うほどだった。そしてこの彼を神様は、こんなに正しい人はいない、と評されるほどだった。
ところが、サタンは人間はそんなことはない、あるはずがない、彼が正しいことは確かかもしれないが、何かあれば神様を呪うに違いない、と、彼の財産、家族、健康まで、神様の言葉を捻じ曲げ、奪い取ってしまった。最初はヨブはそれでも神様を慕い求めていましたが、ついには自分の生まれた日を呪い始めるほどに苦しみ始めた。なぜ?どうして?私の何が間違っていたんだ?と。
そんな中、3人のヨブの友人が慰めに来ます。1人目の長老格のエリファズは因果応報論を持ち出し、たしかにあなたは正しいかもしれないけど、知らないうちに罪を犯していた、だからこうなったんだ、と慰めるどころか苦しめます。↑にもあるようにそんな事はわかっているからと苦しみもだえ、吐露するヨブに2人めの友人、もう友人と言うに値しない気もしますが、ビルダデは今度は勧善懲悪の論議で彼を慰めるどころかさらに苦しめる、そこから↑が始まります。
彼らの言っていることはこれまで8章まで分かち合ってきてた中で見たように、あながち間違えではない。だからこそ、そんなことはわかっている、とヨブは言うのです。だからこそ、苦しいのです。だれでもそうですよね。そんな事はわかってる、けど、どうにもならないことって。
序論にも書きましたが、「そんな事はわかっている」の続きが大事なのです。そんな事はわかってる、でもしょうがないんだよ、と諦めるのか、だから、と次の行動に出るのか。信頼するのか、希望を持つのか、そのへんでぜんぜん違うと思う。もちろん、もがき苦しむ、そんなこともある。あきらめないでいると。あきらめてもか。
でも根本的に私たちは忘れてはいけないのは、ヨブ自身の告白、「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」。人はだれも自力で誕生することなどできない。そして何も持たずに生まれ、何も持たずに帰る。だからこそ、神様は私たちに必要なすべてを与え、また時に問題がある中にあるときは、取られる、と言うか状況を改善、整えられるのです。
しかし、私達はどうも神様を遠く見る傾向がある。ヨブは神様を求めている。求めていた。「しかし、どうして人は自分の正しさを神に訴えることができようか。たとい神と言い争おうと思っても、千に一つも答えられまい。神は心に知恵のある方、力の強い方。神に身をこわくして、だれがそのままで済むだろうか」と告白する通り、神様は正しい方、知恵があり、力の強い方、だからこそ、この神様を恐れ、いつも歩んでいたのです。生きてきたのです。彼はわかっているのです。
だからもう無抵抗でどうしようもないんだ、と私たちはあきらめてしまう。でもそうじゃない。他の友人達もそう。因果応報、勧善懲悪、その前にだからこそ、私たちはこの神様の正しさがなることを、その知恵を祈り求めるのです。私たちはなにか問題があると、神様を横において考えがちですが、そうではない。むしろ、だからこそ、神様は素晴らしい方だとわかっている、ならなおのこと、この神様を求めようではありませんか。
ヨブはさらに続けます。「神が山々を移されるが、だれもこれに気づかない。神は怒ってこれをくつがえされる。神が地をその基から震わすと、その柱は揺れ動く。神が太陽に命じると、それは上らない。星もまた封じ込められる。神はただひとりで天を張り延ばし、海の大波を踏まれる。神は牡牛座、オリオン座、すばる座、それに、南の天の室を造られた。神は大いなることを行なって測り知れず、その奇しいみわざは数えきれない」と。
神様は私たちの知らないうちに大いなるわざをなされる。神様が命じれば太陽は昇らない、また私たちが夜空を見上げれば見える数々の星、月、星座、これらすべてを神様が造られた。神様の大いなる業、奇しい御業は数え切れない、そうなんです。
でもそれが他の人にはあっても自分にはない、だから諦める、あの人には神様は素晴らしい体験をさせてくださり、奇跡を見せられたけど自分にはわかりやすいものがない、なんてクリスチャンの方の悩みを聞くこともありますが、そうじゃない、神様は与え、整えられる。私たちの知らないうちに神様はその山々を動かされている。私達は神様を他人事に捉えやすいがそうじゃない、神様は私達が罪を犯し離れていってしまったゆえに、他人のふりをすることもできるし見捨てることもできる、しかし神様はそれでも私たちを愛し、与えたい、命で満たしたい、罪を、詩
死を、罪の赦し、命へと交換したいのです。
それは「たとい神が私のそばを通り過ぎても、私には見えない。神が進んで行っても、私は認めることができない」というように、気づかないことが多いかもしれない。しかし私たちが生かされている、その中で当たり前と考えすぎていて、神様がどれだけ愛されているのか、その恵みを注がれているのか忘れてはいないだろうか。それを恵みと思わないでいるだけで、神様は十分なほどに私たちを生かしてくださる。神様の恵みは十分なのです。だからこそ、私たちはこの神様を慕い求めよう。
神様は、罪人で見捨てられるべき私達、神様から離れ好き勝手に生きる私達さえ、それでも愛し、死体、私たちの罪の身代わりに御子イエス様を十字架にかけ、死なせた。しかし3日目に蘇られたことによって、イエス様の前に悔い改め立ち返るすべての人を神様のことして迎え入れてくださる。
私たちはこのイエス様の命という代価を持って神様の家族、こ、その特権を与えられた。それがどれだけの恵みだろう。他人として捨てるのではなく、これだけの代価を支払われてまであなたを今日も愛しておられる。これだけの大いなる業をなされた神様が、今日あなたが慕い求めるのを待っている。これだけの愛を受けたのだから、私たちは、神様の御心がなることをなお、祈り求めよう。そんな事はわかっている、で終わらず、わかっていないことを認め、神様の大いなる御心を、御業を祈り求めよう。