「シュアハ人ビルダデが答えて言った。いつまであなたはこのようなことを語るのか。あなたが口にすることばは激しい風のようだ。神は公義を曲げるだろうか。全能者は義を曲げるだろうか。もし、あなたの子らが神に罪を犯し、神が彼らをそのそむきの罪の手中に送り込まれたのなら、もし、あなたが、熱心に神に求め、全能者にあわれみを請うなら、もし、あなたが純粋で正しいなら、まことに神は今すぐあなたのために起き上がり、あなたの義の住まいを回復される。あなたの始めは小さくても、その終わりは、はなはだ大きくなる。さあ、先代の人に尋ねよ。その先祖たちの探究したことを確かめよ。」
ヨブ記8章1−8節
人の口は軽い。私は思いほうだ、と言っている人に限って影であれこれ言っているのを聞きます。実際、接遇のセミナーで、クレーマーの殆どはサイレントクレーマーで実際に表に出てきているのはわずかでしかない、という。時に正しいことをまっすぐズバッと述べることも必要。しかし、思慮深く考えず行動、言動すると、相手を正しく導けない。私たちは何が正しいことなのか、神様によく耳を傾け、聴くものであろう。そしてそれに生きよう。
さて、↑はずっと続いているヨブという人の話をおっている途中。時代的にはノアの洪水後からアブラハム登場前くらい、と言われていますが。そう考えると、神様はこの人、という人だけに目を留めておられるのではなく、全世界あまねく全治を見渡し、ご自分と同じ思いを持つ人を探し求めている。私たちは、神様は私のことなど理解してくれない、なぜ何もしてくれないんだ?と思っても、神様は目を留めてくださっている。
昨日も書きましたが、ヨブ記は42章に渡る、ヨブと3人の友人、さらに若者エリフとのやり取りだけで38章まで続きます。神様は相当長い間何もしなかった、かのように思えて、神様は私たちに耳を向け、目を向け、あなたを心配され、あなたを助けたい、と待っている。神様が黙っているのではなく、私たちがまず神様の前にへりくだり、神様の言葉に耳を傾ける、本来ヨブを訪ねてきた友人たち、家族や財産、健康まで奪われたヨブを慰めに来たのなら、むしろ4人で心ひとつにして祈り、御心を求めるべきだったのではないか、と思う。
ということで、苦しむよヨブに長老格のエリファズは因果応報論を持ち出し、確かにヨブは正しいかもしれないが、なにか不幸があったと言うならそれはなにか原因があるはずだ、と訴える。それにヨブは自分の苦しみを吐露する。そして↑、ビルダデが今度は意見を語り始めます。
それにしても、第一声が慰めの言葉ではなく「いつまであなたはこのようなことを語るのか。あなたが口にすることばは激しい風のようだ」とは、なんたること。本当に友なのか?と思うところ。ヨブ、君の気持はよく分かるよ、お悔やみ申し上げます、の一言でもあったら良いのに、と思う。
私たちには舌があり、それは神様を褒め称えるため、また同時に神様から頂いた愛を、福音を語らせていただく器官のはずが、一瞬にして一蹴してしまうとは。愛の欠片も感じられない。ただビルダデの言っていることは、一見してみると正論のように感じる。
ダビデの残した詩にはこうあります。「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。…まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる」と。
正しい人は時が来ると実がなりその葉は枯れない、悪者はついには亡びうせる、と。どちらにせよ大事なのは水路のそばに植わり、そこから命をいただく。完璧な、一生涯枯れない、倒れない木などない。私たちが自力で良い実を結ぶのではない、神様に繋がり、命をいつも頂いていく中で、御心を求める中で、従う中で、私たちは実を結ぶ、逆にこれを断つとだんだん疲れ、枯れ果てていく。
確かにビルダデの「神は公義を曲げるだろうか。全能者は義を曲げるだろうか。もし、あなたの子らが神に罪を犯し、神が彼らをそのそむきの罪の手中に送り込まれたのなら、もし、あなたが、熱心に神に求め、全能者にあわれみを請うなら、もし、あなたが純粋で正しいなら、まことに神は今すぐあなたのために起き上がり、あなたの義の住まいを回復される。あなたの始めは小さくても、その終わりは、はなはだ大きくなる」というのは正しい。
神様は決して義を曲げないし神様を熱心に求め憐れみを乞うなら、それはそれでいい。しかし純粋で本当に正しい人などいない。だから、私たちは神様に立ち上がらせていただく、神様に命をいただく、栄養をいただく、苦しいときには支えてもらっていい、吐露していい、神様は聞いて、あなたの思いのうちに慰めを与えてくださる。だから私たちは神様なしには生きることはできない、神様の御側で生かさせていただく、生かしてくださるのです。
一見、この正しいと聞こえる意見、↑の最後を見ると一つ疑問が出てくる。「さあ、先代の人に尋ねよ。その先祖たちの探究したことを確かめよ」とあるように、「神様に訪ね求めよう、祈り求めよう、熱心に求めよう」などではなく、過去の先人たちを見て、学べ、と。
しかし私たちが訪ね求めるのは神様。もちろん先輩の話を聞くのもいい、でもそれが全てではないし、必ずしも正しいとは限らない。ビルダデの考え方は勧善懲悪。一見間違っていませんが、一つ間違えてはいけないのは、神様は私たちに裁いてはならない、裁かれないためである、と教えている。でも悪を放置していい、とはもっていない。どういうこと?一つはビルダではあなたが悪だからこうなった、という勧善懲悪。善を勧め、悪を懲らしめる。でもそうじゃない、私達の誰に、何の権威があってさばくことができるだろうか、神様以外に。
律法にも裁きについては書いてありますが、いつも神様の基準に照らし合わせているし、神様自身もさばきをいきなり下すのではなく、いつも悔い改めの機会を与え、また予め忠告しておられた。そう、私たちはむしろ裁くのではなく、諭す、神様へ立ち返る、悔い改めへと導くこと、それこそ大事なのではないか。悔い改めるなら、何度でも赦しなさい、とイエス様は仰られましたし。
そういえば、イエス様の弟子たちが、目の見えない人に向かって、この人が生まれつき目が見えないのは、この人が罪を犯したからですか?それともその両親が罪を犯したからですか?ととんでもないことを言ったことがありますが、イエス様は「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです」と答えられた。そういう意味で、私たちが思うお心と、神様のみ心が一致するとは限らない。
私たちはとかく人を裁くのが得意。しかし、そうじゃない。むしろ神様は私たちが神様のもとに立ち返り命を得るため、私たちの身代りに、御子イエス様を十字架にかけ、罰し、死なせた。私たちをさばくのは簡単。しかし、私たちが命を得るなら、と御子イエス様の命がけの愛を持って私達を諭されたのです。そして3日めに蘇られたことによって、罪を悔改め立ち返るすべての人の罪を赦され、神様の子としてくださる。
私たちが探求すべきは、尋ね求めるべきは、この十字架に込められた神様の愛にある。罪は罪だから、と罰して終わるのではなく、むしろ私達が命を得、救いを得、神様のみ恵みを受ける、本来あるべき姿に回復すべく、どれだけの代価を支払われたのか、愛されているのか、これを日々覚えよう。そして、今あなたはその命によって買い取られた途上にあることを覚え、なお神様に熱心に祈り、また信頼し、導かれよう。このイエス様が、あなたとどんな時も、世の終わりまで共におられ、あなたを導かれるのだから。