ー意見の相違と、見るべき視点ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ああ、幸いなことよ。神に責められるその人は。だから全能者の懲らしめをないがしろにしてはならない。神は傷つけるが、それを包み、打ち砕くが、その手でいやしてくださるからだ。神は六つの苦しみから、あなたを救い出し、七つ目のわざわいはあなたに触れない。ききんのときには死からあなたを救い、戦いのときにも剣の力からあなたを救う。舌でむち打たれるときも、あなたは隠され、破壊の来るときにも、あなたはそれを恐れない。あなたは破壊とききんとをあざ笑い、地の獣をも恐れない。野の石とあなたは契りを結び、野の獣はあなたと和らぐからだ。あなたは自分の天幕が安全であるのを知り、あなたの牧場を見回っても何も失っていない。あなたは自分の子孫が多くなり、あなたのすえが地の草のようになるのを知ろう。あなたは長寿を全うして墓に入ろう。あたかも麦束がその時期に収められるように。さあ、私たちが調べ上げたことはこのとおりだ。これを聞き、あなた自身でこれを知れ。」

ヨブ記5章17−27節

 

物事、同じようなことでも見る角度によって変わって見える。人それぞれ、同じものを見ていても考え方が違う。それはおおよそそれぞれの経験則、知識によるのだろう。でも、それは決して私たちを生かすことはできない。本は良い、でも最も重要な、神様の視点から見ないと、私たちは場面場面で何が正しいのか、理解できない。正しいように見えて正しくない、間違っているようで正しい。何が正しいのか?私たちはいつでも神様に祈り求め、神様の正しさがなる事を切に願おう。

 

さて、↑は紀元前、ノアの洪水の後からイスラエル民族の誕生までの間くらいに生きていたよぶという人の生涯の一部。彼は、ノアの洪水の中にあって示された神様の愛、憐れみ、救いを知ってか、新しい命、この神様を恐れ、愛し、従い歩もう、と決めていた。その彼を神様は祝福するのですが、サタンはこれを気に食わず、ヨブの財産、家族、健康さえ奪っていくのでした。

 

最初は神様をそれでも求めていたヨブですが、だんだん、どうしてこうなったのかわからず、自分の生まれてきた日を呪うしまつ。気持ちはわかります。なんでこんな事が起こったんだ?ということが私たちの目の前に現れる時、どうにもならない。そんな時こそ、私たちは神様の視点、この世の習わしではなく、神様のみ心を求めるべきなのではないでしょうか。

 

話は戻して、そんな彼のもとに3人の友人たちが彼を慰めに来ました。↑はその1人、おそらく長老格、エリファズの言葉。彼は因果応報論を持ち出してきた。まあ確かに、使徒パウロが手紙に「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」と書き残したように、蒔いた種は必ず良くも悪くも刈り取ることになる。

 

問題は、誰が収穫を与え、何を私たちはいただくのか、ということなのです。誰に収穫を求めるのか?それは神様です。エリファズの「ああ、幸いなことよ。神に責められるその人は。だから全能者の懲らしめをないがしろにしてはならない」という言葉エリファズだから間違っている、というわけでもなく、確かに私たちの内に罪があるなら、それは変えられるべきところです。そして彼自身が言っているように、それは徹底的に私たちを打ちのめすためのものではなく、私たちを癒やすため、本来あるべき姿に回復するために、時に教育的訓練的苦難もある。

 

ただ問題は、彼の理論は周りの経験、自分の人生経験から語っているものであって、今、ヨブに必要なことを語っていない。彼を慰めに来たはずなのに、自分にはそれだけの恵みがあった、お前にこんな不幸があるのは、「あなたは自分の天幕が安全であるのを知り、あなたの牧場を見回って」いないからであるかのように語る。

 

しかし、彼の理論は彼の人生経験や知識から来ている。↑で「さあ、私たちが調べ上げたことはこのとおりだ。これを聞き、あなた自身でこれを知れ」と、自分たち、自分で調べてこうなんだ、と語っている。でも、天幕云々いうなら、神様を求めよ、というなら、3人の友人たちと、ヨブとで祈るべきではないだろうか。誰が人を裁く権利があるだろう。諭すのは間違いではない、でもそれは神様のみ心を求め、神様に探り求めていただきながら変えられていくのです。

 

ヨブが「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と、自分の家族や財産を失った時に言ったように、神様が与え、神様が作り変えなければならないところを取り除き、癒やし、整えてくださるのです。私たちは誰ひとりとして神様の計画を完全に理解することなどできない、だからこそ、神様のみ心をなしてください、と祈るべきではないだろうか。何があるのかわからない、でも神様は私達を誕生させ、また導かれ、与え、取られ(整えられ)、養われる方なのだから。

 

エリファズの考えに神様がどうなさるのか、御心はどこにあるのか、それを求める姿が見えない。イエス様はあるときパリサイ人(宗教家)が「なぜ、あなたの弟子たちは長老たちの言い伝えを破るのですか。パンを食べるとき、手を洗っていません」と文句を言ったことに対してこう応えました。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。神は『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は死刑に処せられる』と言われたのです。それなのに、あなたがたは、『だれでも、父や母に向かって、私からあなたのために差し上げられる物は、供え物になりましたと言う者は、その物をもって父や母を尊んではならない』と言っています。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました…』」と。

 

同じ問題を見た時に、神様の御心を求めるか、自分の体験によって決めるか、エリファズの問題と同じなのです。しかし「主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。また、それによって、あなたのしもべは戒めを受ける。それを守れば、報いは大きい。だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように」と詩篇にあるように、私たちを根本的に生き返らせる。

 

イエス様はただ口先だけで語るのではなく愛を実行された。私たちと同じ人となって生まれてこられ、同じ時代に生き、どんなに罵られても裏切られても、私たちを見捨てず、最後には十字架に私達の罪の身代りに架けられ死なれたのです。しかし、3日めに蘇られ、イエス様の前に悔い改め立ち返る、イエス差魔を救い主として受け入れるすべての人の罪を赦し、神様の子としてくださる。その恵みに与らせてくださるのです。

 

あなたの命はこのイエス様の命にあって買い戻された。この買い戻された牧場を、このイエス様の視点で、見回してみよう。この世の習わし、視点で失われているように見えても、神様は大いなる御心を持って、あなたに与えられ、整えられているはずです。私たちはこの神様の御心を、み栄を現して下さい、広げて下さい、と切に祈ろうではありませんか。そこから得られる収穫を大いに喜び待ち望み歩もうではありませんか。それを成し遂げてくださるのは神様ですから。