ー変わるべきことと決して変わらないことー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「…全イスラエルは、ヤロブアムが戻って来たことを聞き、人をやって彼を会衆のところに招き、彼を全イスラエルの王とした。ユダの部族以外には、ダビデの家に従うものはなかった。レハブアムは…王位をソロモンの子レハブアムのもとに取り戻すため、イスラエルの家と戦おうとした。すると、神の人シェマヤに次のような神のことばがあった。『ユダの王、ソロモンの子レハブアム、ユダとベニヤミンの全家、および、そのほかの民に告げて言え。【主はこう仰せられる。上って行ってはならない。あなたがたの兄弟であるイスラエル人と戦ってはならない。おのおの自分の家に帰れ。わたしがこうなるようにしむけたのだから。】』そこで、彼らは主のことばに聞き従い、主のことばのとおりに帰って行った。ヤロブアムはエフライムの山地にシェケムを再建し、そこに住んだ。さらに、彼はそこから出て、ペヌエルを再建した。ヤロブアムは心に思った。『今のままなら、この王国はダビデの家に戻るだろう。この民が、エルサレムにある主の宮でいけにえをささげるために上って行くことになっていれば、この民の心は、彼らの主君、ユダの王レハブアムに再び帰り、私を殺し、ユダの王レハブアムのもとに帰るだろう。』そこで、王は相談して、金の子牛を二つ造り、彼らに言った。『もう、エルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる。』それから、彼は一つをベテルに据え、一つをダンに安置した。このことは罪となった。民はこの一つを礼拝するためダンにまで行った。それから、彼は高き所の宮を建て、レビの子孫でない一般の民の中から祭司を任命した。そのうえ、ヤロブアムはユダでの祭りにならって、祭りの日を第八の月の十五日と定め、祭壇でいけにえをささげた。こうして彼は、ベテルで自分が造った子牛にいけにえをささげた。また、彼が任命した高き所の祭司たちをベテルに常住させた。…」

Ⅰ列王記12章18−33節

 

このご時世様々なことが変化していく。時代が変わるから、自分が変わらなければいけない、価値観が変わったら、それを無理して合わせる、それは本当に正しいのだろうか?神様は何があっても変わることのない方。この神様を私たちは追い求めよう。神様はあなたにいつもベストを注ぎたいのだから、私たちが離れてはいけない、神様に信頼し、従い、歩もう。

 

さて、↑は古代イスラエル王国3代目の王ソロモンの死後、王国が分裂し、その時に何があったのか、これを見るものです。本来はソロモンの息子、レハブアムが全イスラエルの王となるはずだった。しかし彼は、父ソロモンが重税、重労働を民にかし、それに不満を持った民・長老たちは、レハブアムになんとかこれらを軽くしてほしい、と訴えるも、彼は自分の友人たちの意見を聞き、むしろ過税をする、と返答し、ついに民は離れていくのでした。

 

どちらも思惑はある、どちらが正しいかなどわからない。だからこそ、私たちは神様に祈り、自分はどうすべきなのか、神様に尋ね求める必要がどんな時もあるのではないでしょうか。状況は変わっても、神様は変わらない、神様への信頼を私たちが変えてはならないのです。

 

レハブアムは、挙兵して民を取り戻そうとするも、返り討ちに会い、しかも神様から、これは神様から出たことであるからやめるようにと言われ、手を引きます。優秀なアヒヤも失った。民の心も失った。そして、民は、ソロモンのもとで徴用され、でもソロモンの嫉妬によってエジプトに逃れていたヤロブアムが帰還したことによって、彼を王として立てようとし、決断した。同時にレハブアムにとっては神様に立ち返るチャンスだった。

 

イスラエルには12部族あるのですが、レハブアムの家系のユダ族、それにダビデの親友ヨナタンのいた、ベニヤミン族を除いて、ヤロブアムを王としてたて、ここに王国は分裂した。神様の栄光ある国家の分裂、ソロモン王時代はこの素晴らしさをひと目見ようと他の国から人、王さえ集まってくるほどだったのに、その見る影も失われてしまった。

 

でも、王国は分裂しようと、神様の心は変わらない。ヤロブアムのもとに、神様の遣い、というか預言者が使わされた時、神様は彼を通してヤロブアムに、南ユダを神様は見捨てず、灯火を輝かせ続けるのと同時に北イスラエルにも、神様に従う限り、彼らをも神様は祝福される、と約束されていた。しかし、「ヤロブアムの罪」と聖書で何度も出てくるほどに民の心を神様から引き離した↑の罪によって北イスラエルはここから大変なことになっていきます。

 

南ユダは1部族、ユダ族から王権ははなれなかった。しかし、北イスラエルはクーデター等によって、アッシリヤ捕囚までの約210年の間、9回のクーデターによる王朝の交代9回、そして19人の王が次々と交代していくのでした。

 

ヤロブアムは、民の心が自分から離れていくことを恐れた。なぜなら礼拝する場所が南ユダ側にあり、民はそこに行く。このままいけば民の心はやがて自分から離れていく、その事を恐れ、なんと、北イスラエル側に礼拝場所を築きます。ただ、場所が問題なのではない、それはイエス様もおっしゃる。霊と真をもって礼拝すること、これこそが大事なのだ、と。しかしヤロブアムはせっかく神様から頂いた最高の恵みをないがしろにし、なんと、事もあろうに神様を別なものである、この金の子牛を拝むように、としていくのでした。そうして土台を失った北イスラエルは価値観が次々変わり、本来治める、頼るべき神様をとっかえひっかえしていって彼らのアイデンティティは失われていってしまった。

 

神様は、場所や状況によって変わることのない方です。私たちは状況の変化についていこうと、次々と頼るべきものをとっかえひっかえする、自分の心を守るために、周りに調子を合わせ、本来あるべき神様の恵みを失っていってしまう。神様はあなたを愛し、恵みを注ぎたいのです。民の目?民の信頼?違う、神様は変わらない、だからこそ私たちは神様への信頼を、見るべき方を変えてはいけない、状況に応じて。臨機応変、というのはときには必要、でも神様への臨機応変は不要。神様のあなたへの愛は永久に変わらないのだから。御子イエス様の命を十字架上で、あなたの罪の身代わりに罰し、死なせるほどに愛される神様の愛は、そんな薄っぺらいものではないのです。

 

あなたを保証するのは、状況に応じてふらついて信頼できそうな何かではない、御子イエス様の命さえ惜しまなかった神様、この命にあって、私たちが悔い改め立ち返る時、神様を求め立ち返る時、私たちは神様のことされるその大いなる特権を与えられる。これ以上に何を求める必要があるだろう。これ以上にあなたを満たすことができる方はいるだろうか。

 

私たちは場所や世の中、状況に振り回されてはいけない。決して変わることのない神様に、私たちも変わることなく求め続けよう、神様を。神様はどんな状況にあっても、分裂していった先にあっても両方を祝福しようとしていたように、あなたが神様を求め立ち返ることを何よりも待っておっれる。だって、彼らはもともとは同じ民族であり、神様の子なのだから、このために愛を注ごうとされるのは当然。役割が違えども神様の愛は決して変わりません。

 

今日、この神様に信頼し続け、歩もうではありませんか。神様は復活のイエス様の恵みにあなたを招かれ、あなたを新しく日々、その変わることのない愛を持ってた手あげ続けてくださる。1日1日。だから私たちも1日1日、神様との関係を喜び、歩んでいこうではありませんか。一人の王の王なるイエス様があなたを治め、導かれる、この日々を。世の王朝というか、状況がどんなに変化しても、神様のこの恵みの前に立ちおおせることなどできない。だから私たちは、この神様の前に、十字架の前にへりくだり、この恵みの内に生きようではありませんか。