「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。』知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」Ⅰコリント人への手紙1章18−25節
人は、〇〇をしてくれたら信じるよ、とか、なにか証拠を見せてよ、とかそういう傾向がある。でも結局信じないんですけど。人の知識は限界があり、時代とともに変わっていってしまう。しかし十字架の力は不変。その愛は不変。私たちは「神様の知恵」、これに生かされ歩もう。
さて、↑は紀元1世紀に、イエスキリスト様が十字架にかかられ死なれ、3日めによみがえられて後、天に昇られたあと、聖霊様が降臨、教会誕生。一方で↑の手紙を書いたパウロ(当時サウロという名前だった)は教会を、キリスト教徒を迫害し、教会を担っていくであろうステファノの殺害に協力するほどの迫害者だった。
彼は宗教家としては相当の地位にあり、このまま行けばトップにたってもおかしくないくらい。しかし、そんな彼に復活のイエス様がお会いになられたのです。なぜわたしを迫害するのか?と。木に吊るされるものは神様に呪われたもの、と教えられていただけではなく、あの十字架で死んだはずのイエス様が生きておられる?しかも裁くどころか悔い改めに導かれた。普通ならありえない。しかし、彼はこの出会いによって変えられた。すべての地位を捨てでも、この新しくされた命、恵みに生きる決心をしたわけです。
この十字架を信じて何になる?と普通の人は思う。だから何?と。それこそ↑にあるようにそれを語ることは愚かに見える。しかし、これは受難週の間に何度も見てきたイエス様の十字架への、いや私たちへの思いを見ても分かる通り、神様の愛そのものなのです、この十字架は。救いへ至る神様の力、信じたら信者になる、とかそういうレベルの話ではなく、神様のことされる、その特権が与えられる。復活のイエス様が信じるすべての人のうちに住まわれ、聖霊様が豊かに働かれる。
何という恵み、力だろう。ただ信者を作る、お金を集める、とかそういうような話ではない。救いに至らせる、しかも人間側の努力によるのではなく、一方的な神様の恵み、愛、まず、私たちの代わりに私たちの罪の台下、死を支払われた。この救いを受け取るすべての人にこの恵み、愛が、あなたのうちに豊かに働かれるのです。
私たちは自分で生きる道を、何が正しいのか、真理なのかを求め、さまよう。↑に「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します」とありますが、ユダヤ人だのギリシャ人だの関係ない、私たちみんな序論に書いたように求めるのです。これこれをしたら信じるよ、とか。十字架にかかられたイエス様を罵った人たちの中にも、十字架から降りてみろ、そうしたら信じてやるよ、とか罵られ、からかわれた。イエス様はできたんです。でもしなかったのです。十字架から降りたら、イエス様という存在は認めても、神様のみことは認めない、ただ奇跡を行うすごい人程度にしか見ない。そこにはなんの救いもない。
また、当時のローマ人たちは真理を求めていた。ある意味で。現代で言うなら科学的なものか。真理を探求し、様々な神々を頼る。でも答えは出ない。イエス様を尋問した総督ピラトも、真理とはなにかをイエス様に問うた時、イエス様こそそれだ、と言われた時あざ笑うような態度をとった。
結局、なにか印・奇跡的なものをどんなに見ても、どんなに素晴らしい学問的知識を得ても、私たちは決して救われることはない。それでは足りない、とさらに結局さまよい歩くだけ。しかし、そんな本当の命をわからずさまよい歩く私たちを憐れまれ、救いに導くために、イエス様は来られたのです。人となって生まれてこられ、私たちの間に住まわれ、同じ重荷を負い、最後は十字架に身代わりに、私たちの主にすべてを、罪を背負われ死なれたのです。あり得ない。
でも、私たちがイエス様を救い主として受け入れ神様に立ち返る時、私たちは先程も書いたように神様のことされる、その特権が与えられる。人の目にはそんなものなんの役にも立たない、弱いものが求めるものだ、と言われようと、ここに力がある、知恵がある、救いがある。というよりも、私たちのうちに神様が表されるのです。導かれるのです。
あなたは今日、十字架を何ととらえていますか?ただのシンボルにしてませんか?救われて終わり、救われるための手段、で終わっていませんか?神様の愛は、知恵は、力は、ある意味で不変、変わることなくあなたに注がれる、だからこそ私たちはこのまことの知恵、御力に生かされ歩もうではありませんか。
