-誰の意見を聴くべきか- | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「さて、再び主の怒りが、イスラエルに向かって燃え上がった。主は『さあ、イスラエルとユダの人口を数えよ』と言って、ダビデを動かして彼らに向かわせた。王は側近の軍隊の長ヨアブに言った。『さあ、ダンからベエル・シェバに至るまでのイスラエルの全部族の間を行き巡り、その民を登録し、私に、民の数を知らせなさい。』すると、ヨアブは王に言った。『あなたの神、主が、この民を今より百倍も増してくださいますように。王さまが、親しくこれをご覧になりますように。ところで、王さまは、なぜ、このようなことを望まれるのですか。』しかし王は、ヨアブと将校たちを説き伏せたので、ヨアブと将校たちは、王の前から去って、イスラエルの民を登録しに出かけた。彼らはヨルダン川を渡って、ガドの谷の真ん中にある町、ヤゼルに向かって右側にあるアロエルに宿営し、それから、ギルアデとタフティム・ホデシの地に行き、さらにダン・ヤアンに行き、シドンに回った。そしてツロの要塞に行き、ヒビ人やカナン人のすべての町々に行き、それからユダのネゲブへ出て行って、ベエル・シェバに来た。こうして彼らは全土を行き巡り、九か月と二十日の後にエルサレムに帰って来た。そして、ヨアブは民の登録人数を王に報告した。イスラエルには剣を使う兵士が八十万、ユダの兵士は五十万人であった。ダビデは、民を数えて後、良心のとがめを感じた。そこで、ダビデは主に言った。『私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ。今、あなたのしもべの咎を見のがしてください。私はほんとうに愚かなことをしました。』」

Ⅱサムエル記24章1-10節

 

私たちは悩むと誰かに意見を求める、何かの本を読む、ある人は祈る。様々です。そんな時、Aという回答とBという回答が出てきたときあなたはどちらを選ぶでしょう?大概その場合、自分の都合にあう回答を選ぶでしょう。しかし、本当に正しい回答は、導きは、あなたを命の道に導くし、平安が与えられる。自分は大丈夫、とか自らを誇る前に私たちは、この正しい心理なる方、イエス様の声にしっかり耳を傾け従い、歩もう。

 

さて、↑はサムエル記の付録の続き。古代イスラエル王国2代目の王ダビデがどうしても残さなければいけない記録だ、と残したもの。時代的にはヨアブの立ち位置からして、ダビデの死期(23章)よりも前の出来事と思われます。

 

その出来事というのは、ダビデが犯した罪の中で特に取り上げられる2つの罪、バテシェバとの不倫の果てのバテシェバの夫ウリヤを隠蔽殺人した事件、そして↑の人口調査の罪。実は、この人口調査の罪については謎がかなり残ります。というのも、イスラエルをエジプトの奴隷状態から解放した旅路の中で2度の人口調査を命じていますし、その他の場面でも人口調査自体は行われているのですから。

 

ちなみに、出エジプトの際の人口調査の目的は旅路では様々な戦い、物理的な戦いや問題がある、だからどんな人がいるのか、どれくらいいるのか、これをしっかりと把握する、そういう目的がありました。人口調査はともかくとして、自分の仲間のこと、しっかりと知る、困っていないかなどよく把握しておく必要がありますね。自分の隣人のこと。そのあなたの決断を通して神様が働かれ、何かをなされることもある。

 

話は↑に戻して、じゃあ↑の人口調査は何が問題なのか?という話です。まず第1の問題点として、「主は『さあ、イスラエルとユダの人口を数えよ』と言って、ダビデを動かして」とあるのに、どうしてそれを実行したダビデが責められ、怒られなければならないのか?と思うわけです。

 

これについては、実はバビロン捕囚後に、イスラエルがもう一度神様に立ち返ろう、信頼し、神様に従い歩もう、その回復のために、学者エズラという人がイスラエルの歴史を改めて洗い直した歴代誌、その中でも↑の罪について触れ、そこで別な表現がされています。「ここに、サタンがイスラエルに逆らって立ち、ダビデを誘い込んで、イスラエルの人口を数えさせた」と。これはダビデへのサタンの誘惑だった、と。

 

あれ?↑と主語が違くない?と思うところですが、実はサタンは私たちを神様から引き離そうとすることにあります。じゃあ何がこの2つの記録に違いがあるのか?ある人は書き直した、と言いますが、聖書はすべて神様の霊感によって書かれた、と新約時代の使徒パウロは語りますからそれは疑問。

 

実はサタンは、ヨブという、神様がこれ以上に正しい人を見たことがない、と評する人に、財産とか健康を奪えばあなたに対して態度を翻すに違いない、と訴え、家族や彼の健康に手を出す以外は限定的にそれを許可したことがあります。その中で神様に頼ることを神様は期待していた、と思うのですが。おそらく、サタンのこのダビデへの思惑を神様は許可し、ダビデがなおますます神様に依り頼み、栄光を帰すこと、自分が素晴らしい、神様の御業が素晴らしいんだ、という事を知ってほしい、そう願ったのではないか。

 

しかし、ダビデは自分がいかに王として、また神様に従うに優れたものであるか、それを示したかったのではないか、と思う。神様の御業を、自分のものとし、神様の御業を否定する、我がものとし、神様を神様としない…人口調査自体よりも、サタンは自らを誇らせて神様はいらない、と離れさせたかったのではないか。

 

ヨアブの「あなたの神、主が、この民を今より百倍も増してくださいますように。王さまが、親しくこれをご覧になりますように。ところで、王さまは、なぜ、このようなことを望まれるのですか」とダビデに進言した時に、ダビデは彼を説き伏せた、という。わざわざ調べるまでもなく、主よ、あなたの御業はすばらしいものです、なお、今よりもあなたの御心を増し加えてください、と祈るところを、ヨアブのこの進言を退けて、命じた。そしてヨアブにイスラエル全土をめぐりゆかせ、調べさせた。

 

ここで、「ダビデは、民を数えて後、良心のとがめを感じた」と↑を見るとあります。罪を指摘されて、の前に自分の罪深さを知り、悔い改めへと進む。罪を罪としたままでは行く先は神様の御心の道、祝福から離れるのです。

 

実はこの「とがめを感じた」ということばのもともとの意味は、「打つ、打たれる」という意味があるそうです。罪責感、自分が罪を犯した、と導かれる、神様によって心に示される、神様は悔い改め、回復させる機会を与えて下さったのです。もちろん罪に対する報酬を王として支払う事と続きの箇所で出てくるのですが、それはまた明日。でもその時、私たちはどうするのか?それでも神様から離れ続けるか、これは私の名誉だと言って離れるか、それとも神様に立ち返る・悔い改め神様に栄光を帰し、なお神様の御恵み、御心が溢れることを願うか。この2つは全然違う。

 

ダビデは、ここで見逃して下さいと祈りますが、その答えは明日。しかし神様は見逃して放置する、ただ罰して命を取るのではなく、サタンのように祝福から引き離すのではなく、むしろその神様から離れた状態を放置するのではなく、私たちを回復させてくださる。罪を罪のままありのままでいいとはされない。むしろ罪から解放し、神様に立ち返り、命を得ることを何より願われる。

 

そのために、私たちの罪を身代わりにイエス様に背負わせ十字架で身代わりに罰せられ、死なせた。しかし3日目によみがえられた事によって、私たちを神様の恵みから離れた場所から引き上げる、死から命へと引き上げて下さったのです。

 

私たちは、神様を疑い、足りないところはないか、神様は本当に自分を愛しているのか?など疑い、霊的な人口調査を行います、我が内に。しかし神様はこの御子イエス様の命を惜しまず与えるほどにあなたを愛し、あなたをイエス様の命をもって買い戻され、恵みに導かれた、その中に神様はあなたへ恵みを、祝福を、命を日々増し加えて下さる。何も疑う必要はない。今日私たちはこの神様の御声を聴き、神様に打たれる・促されるままに立ち返り、またこの道に生きよう、イエス様の命にかけて敷かれたこの命の道を。