「主が、ダビデのすべての敵の手、特にサウルの手から彼を救い出された日に、ダビデはこの歌のことばを主に歌った。彼はこう歌った。『主はわが巌、わがとりで、わが救い主、わが身を避けるわが岩なる神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。私を暴虐から救う私の救い主、私の逃げ場。ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。死の波は私を取り巻き、滅びの川は、私を恐れさせた。よみの綱は私を取り囲み、死のわなは私に立ち向かった。私は苦しみの中に主を呼び求め、わが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、私の叫びは、御耳に届いた。すると、地はゆるぎ、動いた。また、天の基も震え、揺れた。主がお怒りになったのだ。煙は鼻から立ち上り、その口から出る火はむさぼり食い、炭火は主から燃え上がった。主は、天を押し曲げて降りて来られた。暗やみをその足の下にして。主は、ケルブに乗って飛び、風の翼の上に現われた。主は、やみを回りに置かれた。仮庵は水の集まりと、濃い雲。御前の輝きから、炭火が燃え上がった。主は、天から雷鳴を響かせ、いと高き方は御声を発せられた。主は、矢を放って彼らを散らし、いなずまで彼らをかき乱された。こうして、海の底が現われ、地の基があらわにされた。主のとがめにより、その鼻の荒いいぶきによって。主は、いと高き所から御手を伸べて私を捕らえ、私を大水から引き上げられた。主は、私の強い敵と、私を憎む者とから私を救い出された。彼らは私より強かったから。彼らは私のわざわいの日に私に立ち向かった。だが、主は私のささえであった。主は、私を広い所に連れ出し、私を助け出された。主が私を喜びとされたから。…」
Ⅱサムエル記22章1-20節
今から10年前、東日本大震災が発生し、甚大な被害を及ぼした。今でも4万人を超える非難されている方がいる。復興、と言ってもどれだけ時間が経っても、回復しました!と声高らかに言えるわけではない。しかし、どんなに時間が経とうと、どんなにつらい中を通ることがあっても決して変わらない、それは神様があなたを喜びとされる、愛されている。その愛は決して変わらない。きれいごとに聞こえるかもしれない。でも神様はきれいごとを並べない。神様の現実の愛の内に招かれる。
さて、↑は表題からも見えるように、ダビデがすべての戦いを終えた後に歌われていた歌。今日はその前半部。古代イスラエル王国初代王サウルから逃れた後特に歌われていた、といいますが、それはその後も彼自身の心に結び付け歩んでいた詩。一度だけ救われた、でもその後は救ってくれるとは限らないじゃないか、とは思わず、これまで何度も見てきたようにダビデは多くの戦いがあっても決してこの信仰は、思いは変わらなかった。
それにしても東日本大震災があったこの日にこの箇所と巡り合うというのは本当に不思議。いや、神様は必要な時、必要なことを語り掛け、勇気を与え、力を与え、思い出させてくださる。だから、私たち自身も神様に心をしっかり結びつけている必要がありますね。
「死の波は私を取り巻き、滅びの川は、私を恐れさせた。よみの綱は私を取り囲み、死のわなは私に立ち向かった」なんて、まさにあの時起こった事と似ている。ダビデは津波には合わずとも、多くの苦しみ、苦難、戦い、いつ自分が死ぬかわからない、そのような状況にあった。特にサウルに命を狙われていた時は、まだ王ではなかったし、いったい彼は何者なのでしょう。私たちも小さい、こんな苦難の時、どうしたらいいんだ?
私たちは生きている限りは、多くの滅びの川が押し寄せてくる、私たちを取り囲み、立ち向かう。死ぬんじゃないか、と思うような、心を砕くような、魂を砕くような、神様から引き離そうとする多くの問題が迫ってくる。
そんな時、神様神様言っている場合じゃない、と人は思う。それが現実。人の弱さ。神様が何をしてくれるというんだ?そう思いたくなる。でも、当時多くの避難所が開かれたように、神様は、「わが巌、わがとりで、わが救い主、わが身を避けるわが岩なる神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。私を暴虐から救う私の救い主、私の逃げ場。ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる」のです。
私たちはある時は神様を避難所、逃げ場、そうしやすいのですが、神様はいつでもどこでも、その避難所を開いてくださっている。私たちの隠れ場となり、救いとなり、力となり、救ってくださる。この確信に私たちは立っているだろうか?逃げる勇気、それは決して弱いことを意味するわけではない。神様を求める事こそ勇敢な行動ではないか。苦しければ苦しい、辛ければつらい、そう言ってもいい。
あなたの心を、魂を守るのは、神様。神様は非現実的な存在ではない。現実に興味ない方ではない、具体的に動かれる。「すると、地はゆるぎ、動いた。また、天の基も震え、揺れた。主がお怒りになったのだ。煙は鼻から立ち上り、その口から出る火はむさぼり食い、炭火は主から燃え上がった。主は、天を押し曲げて降りて来られた。暗やみをその足の下にして。主は、ケルブに乗って飛び、風の翼の上に現われた。主は、やみを回りに置かれた。仮庵は水の集まりと、濃い雲。御前の輝きから、炭火が燃え上がった。主は、天から雷鳴を響かせ、いと高き方は御声を発せられた。主は、矢を放って彼らを散らし、いなずまで彼らをかき乱された。こうして、海の底が現われ、地の基があらわにされた。主のとがめにより、その鼻の荒いいぶきによって。主は、いと高き所から御手を伸べて私を捕らえ、私を大水から引き上げられた」とダビデ自身うたっているように。
何と細かい描写。しかし神様はたとえ死の谷間を私たちが歩む時でさえ、私たちと共におられるのです。サウルから逃れた時だけじゃない、どんなに時間が経っても神様の私たちへの思いは変わらない。神様は現実、あなたに現実に、愛を、御心を現そうと待っておられるのです。
今この投稿を書きながら涙が流れてきた。2つの意味がある。それでも失われていった人たちへの悲しみ。神様は、人の痛みのわからない方ではない。人はやがて死ぬことを知っていても、しかしイエス様を救い主として受け入れる時、やがてよみがえり、天の御国で神様の懐で安らぐ、その事をイエス様は知っていながら、友ラザロが死んだとき、悲しみ、涙を流した。この後イエス様が神様の御旨により、ラザロをよみがえらせる事を知っている。それでも人の死は悲しいもので、そのような私たちを悲しみ涙を流された。
もう一つは、そんな私のためにさえ、私たちのためにさえ、あなたのためにさえ、イエス様は涙を流し、また覚えて下さり、愛してくださる、ということ。どんなに時が経とうと神様のあなたへの愛は変わらない。私たちへの愛は変わらない、そのことを喜ぶ涙が。
今日の最後の部分、「主が私を喜びとされた」というのは、「主が私を愛しておられる」という意味なんだそうです、厳密には。この愛は人が神様に何かを願って求める事に対して、神様が喜んで良いものを惜しみなく与えようとする愛。この愛は変わらない。あなたは神様にあって作られ、愛するあなたのために御子イエス様を身代わりに十字架にかけ罰せられた、そこまでしてまであなたを愛し、復活と共にあなたを神様の家族へと、神様の子として招いてくださったのです。
神様は、あなたを喜びとされている。愛されている。そのことは変わらない。ダビデはこの世のものとは考えられない恐ろしい目にあっても、裏切られても、いつも神様に心を結び付け、神様により頼んだ。どんなに敵が、それこそ一昨日見たように姿を変えようとも、問題が変わろうとも神様は変わらない。私たちこそ、神様への信頼を変わることなく、いつも神様を求め続けよう。罪の底、死から御子イエス様の命を持ってまで買い戻されたこの新しい命、神様に大いに信頼し。神様が日々ダビデを守り導き助けられてきたように、神様のなされる大いなることを期待しよう。