「彼は泣きながら、こう言い続けた。『わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ。』そうこうするうちに、ヨアブに、『今、王は泣いて、アブシャロムのために、喪に服しておられる』という報告がされた。それで、この日の勝利は、すべての民の嘆きとなった。この日、民が、王がその子のために悲しんでいる、ということを聞いたからである。民はその日、まるで戦場から逃げて恥じている民がこっそり帰るように、町にこっそり帰って来た。王は顔をおおい、大声で、『わが子アブシャロム。アブシャロムよ。わが子よ。わが子よ』と叫んでいた。ヨアブは王の家に行き、王に言った。『あなたは、きょう、あなたのいのちと、あなたの息子、娘たちのいのち、それに、あなたの妻やそばめたちのいのちを救ったあなたの家来たち全部に、きょう、恥をかかせました。あなたは、あなたを憎む者を愛し、あなたを愛する者を憎まれるからです。あなたは、きょう、隊長たちも家来たちも、あなたにとっては取るに足りないことを明らかにされました。今、私は知りました。もしアブシャロムが生き、われわれがみな、きょう死んだのなら、あなたの目にかなったのでしょう。それで今、立って外に行き、あなたの家来たちに、ねんごろに語ってください。私は主によって誓います。あなたが外においでにならなければ、今夜、だれひとりあなたのそばに、とどまらないでしょう。そうなれば、そのわざわいは、あなたの幼いころから今に至るまでにあなたに降りかかった、どんなわざわいよりもひどいでしょう。』」
Ⅱサムエル記18章33-19章7節
親の心子知らず、じゃないですが、私たちはどうしても人情を優先し、何が正しいのか、今何を喜ぶべきなのか、わからなくなる。人の心というのは本当に難しい。ただ、自分の思いを優先、人情を優先すると、必ずしも正しい結果を得られない。私たちは「神様の御心」、これを求め続けよう。自分の思いはこう、でも神様の御心がなりますように、あなたがベストへ導くと信じます、と祈りながら。
さて、↑は古代イスラエル王国2代目の王ダビデの治世で起こった、ダビデ王の息子アブシャロムによって起こされたクーデター、それに将軍ヨアブの手によって、というよりも神様に助けられ、ダビデは無事にこのクーデターを終結させました。しかし、どんなに自分にクーデターを起こし、国から追放し、王権ダッシュをした息子であろうとも、やはり我が子。わが子の死をどうして悲しまずにはいられるだろうか。
普通なら、自分に対して悪を行った息子、そんな子をわが子なんてどうして呼べるだろう。私があなたの身代わりになればよかった、と言えるだろう。でも彼にとって本当にアブシャロムが愛する存在だったことがよくわかる。
息子が何か悪いことをしたら、それでも、赦しに向かう、それがある意味で親。神様も、どんなに神様から離れていったアブシャロムに対しても、私たちに対しても、決して見捨てることなくその御手を伸ばされるのです。私たちが立ち返り、命を得ることを。神様からしたら、人情的に見たら、勝手に自分から離れ、神様を神様とせ疼き勝手に生きる、そんな私たちを手放しにざまあみろ、なんていえない。むしろ、↑のダビデの嘆きのごとく、悲しまれる。
ヨアブは、ダビデを苦しめる敵を打ち破った。「ダビデのいのちと、ダビデの息子、娘たちのいのち、それに、ダビデの妻やそばめたちのいのちを救った」。それなのに、その彼を苦しめるものが打ち破られたのに、なぜ悲しんでいるのか?我々にどうして恥をかかせるのか、そんなに私たちの方が死ねばよかったのか?とダビデに厳しく迫ります。
彼の気持ち、とても分かります。でも、肉親の死とヨアブの主張、どっちを取ればいいのか、何て答えなどないじゃないですか。息子が死んで悲しまないでいられるはずがあるだろうか?しかしそれでも神様は、自分の子が死にゆくことを、周りから何と言われようとも見捨てられず、嘆かれる、愛される。
ダビデは結局、王の門のところに座ります。それでも、王として果たすべき役割があった。頑張った彼らのためにねぎらいの言葉を語り、あるべきところに帰る必要があった。
ふと、この箇所を、肉親ではなく別な視点で考えたらどうだろう、と思った。その時、イエス様がこう仰られたのを思い出した。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます」と。
イエス様、ずいぶん厳しいよ、と思う。愛がない、という人がいるかもしれない。家族を捨てろ?でも、この本質は、「福音のために」。もし、イエス様の御心、神様のおっしゃることと、家族が言っていることが違う時、神様の御心を選び取る鵜、その中に百倍の恵み、計算するに値しないほどの神様の祝福があなたの内に溢れ、後には神様の栄光の内に受け入れられるというのです。
もしくは他の箇所では、あなたの上に立つ者のために祈りなさい、という箇所があるのですが、それは、私たちが我慢をするという事ではない。なんでもはい、というイエスマンになりなさい、とイエス様が仰っているわけではない。もし、違う時にははっきりと、ノーをいう。神様の御心と違う時は。むしろ彼らが正しい判断を下せるよう、為政者のために祈ることを勧められているのです。
↑の箇所で、ダビデが正しいのか、ヨアブが正しいのか、正直どっちとも言い難い。ただ言えることは、どんな状況にあっても、私たちは自分の都合で決断するのではなく、神様の御心を祈り求める、今何をすべきか、立つべきところに私たちは帰らなければいけない。息子の死はつらい、でも今、ダビデに神様がまかされていることがある。元気になったらもう一度彼のいるべき場所に帰る必要があった。
イエス様は、十字架にかかる前、ペテロがイエス様を捨てる、裏切る、知らないという事を知っていてそれでも、彼のために祈ったこと、そして「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」とおっしゃられた。
元気になったら、立ち上がり、帰るべき場所に行き、力づける。ペテロにはペテロへの神様が与えた役割があるように、ダビデにはダビデに、あなたにはあなたに神様の与えている役割があるのです。しかし、私たちは自分の人情、心で動くのではない。別にロボットのようになれ、と言っているわけではなく、私たちは神様の御心を求め、何が正しいのか、祈り、御言葉に聞きながら「神様の御心」に従い歩もうではありませんか。そして「福音のために」とイエス様がおっしゃられたように、神様の愛をいただき、愛をもって仕え、その中で神様の栄光を現させていただこうではありませんか。
私たちはどこへ行くのか知らないし、どうしたらいいのかなんて、何が正しいかわからない。でも、あなたは御子イエス様の命にあって買い取られたのです。そこまで代価を払ってまで神様があなたを愛し、取り戻されたのです。あなたの気持ち、辛さは重々神様は承知。それを神様は無視するわけではない。でもそのあなたを通してだからこそ届けられる愛がある、必要な人の所に行ける。神様の目でしか分からないことはたくさんある。
この暗い世の中。だからこそ、私たちはこの神様の御心を求め、その道を照らしていただき次の一歩へと踏み出していこうではありませんか。その一歩を支え、導かれるのは神様、御子イエス様の命さえ惜しまない神様。この神様に信頼し、歩もう。罪人だからと、愛なく見捨てるのではなく、むしろ救われたこの方、真の親・父なる神様に信頼し。