「…ダビデは民の三分の一をヨアブの指揮のもとに、三分の一をヨアブの兄弟ツェルヤの子アビシャイの指揮のもとに、三分の一をガテ人イタイの指揮のもとに配置した。王は民に言った。『私自身もあなたがたといっしょに出たい。』すると民は言った。『あなたが出てはいけません。私たちがどんなに逃げても、彼らは私たちのことは何とも思わないでしょう。たとい私たちの半分が死んでも、彼らは私たちのことは心に留めないでしょう。しかし、あなたは私たちの一万人に当たります。今、あなたは町にいて私たちを助けてくださるほうが良いのです。』王は彼らに言った。『あなたがたが良いと思うことを、私はしよう。』…王はヨアブ、アビシャイ、イタイに命じて言った。『私に免じて、若者アブシャロムをゆるやかに扱ってくれ。』…こうして、民はイスラエルを迎え撃つために戦場へ出て行った。戦いはエフライムの森で行なわれた。イスラエルの民はそこでダビデの家来たちに打ち負かされ、その日、その場所で多くの打たれた者が出、二万人が倒れた…アブシャロムはダビデの家来たちに出会った。アブシャロムは騾馬に乗っていたが、騾馬が大きな樫の木の茂った枝の下を通ったとき、アブシャロムの頭が樫の木に引っ掛かり、彼は宙づりになった。彼が乗っていた騾馬はそのまま行った。ひとりの男がそれを見て、ヨアブに告げて言った。『今、アブシャロムが樫の木に引っ掛かっているのを見て来ました。』ヨアブはこれを告げた者に言った。『いったい、おまえはそれを見ていて、なぜその場で地に打ち落とさなかったのか。私がおまえに銀十枚と帯一本を与えたのに。』その男はヨアブに言った。『たとい、私の手に銀千枚をいただいても、王のお子さまに手は下せません。王は私たちの聞いているところで、あなたとアビシャイとイタイとに、【若者アブシャロムに手を出すな】と言って、お命じになっているからです。もし、私が自分のいのちをかけて、命令にそむいていたとしても、王には、何も隠すことはできません。そのとき、あなたは知らぬ顔をなさるでしょう。』ヨアブは、『こうしておまえとぐずぐずしてはおられない』と言って、手に三本の槍を取り、まだ樫の木の真ん中に引っ掛かったまま生きていたアブシャロムの心臓を突き通した。ヨアブの道具持ちの十人の若者たちも、アブシャロムを取り巻いて彼を打ち殺した。…」
Ⅱサムエル記18章1-16節
挙げたこぶしは降ろしづらい、やられたらやり返す、これが世の中。でも、それで本当にいいのだろうか、と思うことがある。それは連鎖していくし、いいことはない。いい実を結ばない。だからこそ神様は復讐をしてはならない、と仰られている。それは神様の領域であり、神様がすべてを導かれるから、と。それに信頼しないのは、神様に対してこぶしを上げているのと同じではないか。私たちは神様の前に遜り、神様の御心がなる事を切に願い、委ねようではありませんか。
さて、↑は古代イスラエル王国2代目の王ダビデの治世において、彼の息子アブシャロムによって起こされたクーデター、その結末の部分になります。彼は、自分の妹が、腹違いの兄アムノンに辱められ、惨めな形で捨てられ、それに怒って、ダビデ王にきちんと報告することなく、復讐のためアムノンを殺し、ダビデの怒りから逃れるために逃げ、しかしダビデというか、神様の憐みがダビデの心の内に起こされ、彼は国に帰ることを赦されます。が、自分の罪を忘れ、不遇な目にあっている、と不満に思い、クーデターを起こした。
彼のその不満は神様に対する者である、この事を忘れてはいけない。だって、神様の憐みが彼の内にもあったし、↑を見てもわかるように、ダビデはそれでも息子アブシャロムを愛していた。もし、悔い改めていたなら、やがて彼もまた引き上げられていた。何より神様は自分が不遇と思っていても、常に良きに計らってくださっているはずです。神様を求めているなら、それに気づくはず。しかしそうではなかった。ある意味では神様に対して彼はこぶしを振り上げてしまって、父に振り上げ、どうにもならなくなってしまった。
ダビデの逃走中、神様は彼を守り、多くの助け手、知恵を与えられていた。ダビデの友フシャイが命を惜しまずアブシャロム側にいながら、スパイのようにダビデを助け、報告し、さらに、アブシャロムに寝返ったアヒトフェルの信頼を落とさせ、アブシャロムに先頭に立って戦うよう仕向けた。その結果が↑。
彼は意気揚々と先頭に立って戦うも、彼の自慢の長髪が気に引っかかり、身動き取れなくなったところを、なんと、ダビデ側の将軍ヨアブや彼の道具もちたちによって殺されることとなり、このクーデターは終結を迎えた。
それにしても、戦いとなれば、やるからやられるか、にどうしてもなる。人間の目で見るなら。やらなければやられる。しょうがないじゃないか、と人はこの結末を思うかもしれない。しかし、ダビデが兵を遣わしたときのセリフをもう一度見てほしい。「私に免じて、若者アブシャロムをゆるやかに扱ってくれ」、これこそが、ダビデの願いだったのです。
父だから?甘い?違う。その先に関しては神様の御手に委ねる、それがダビデの思いだった。わが息子だからこそ、彼が何とか神様に立ち返ってほしい、それが彼の願いであり、そのような思いを起こさせた神様の願いだったのではないか。
ちなみに続きの箇所では「私が彼の代わりに死ねばよかった」と、アブシャロムへの思いを言う。将としてはありえない。しかし、私たちは問題の本質を、人の目で見、自分の手でけりをつける、打ち砕こうと考えれば同じように考えるだろう。でも、神様の御手に、その戦いを、問題を、悲しみを、痛みを、委ねた時、それはまた変わるのではないか。
ちなみに、ゆるやかに扱ってほしい、という言葉の意味には、「ゆっくりと、ゆるやかに、穏やかに、優しく」という意味があるそうです。私たちが自分優しく、ではなく穏やかにではなく、怒りに任せ、復讐心や、妬み、恨みそうした目で戦おうとすれば、その結果は自分で刈り取らなければならないし、戦っていく事になる。
しかし、良い姿勢は、100の弱点を相殺するのです。どうして?自分が?違う。神様の御前に遜り、謙遜になるとき、神様があなたの内に働かれ、これを変えて下さる。神様が働かれ、神様が何かをなされる、これ以上に何を期待する必要があるだろう。復讐をしてはならない、と神様は仰られた。それは神様のものだから。神様が、その御心の内に代えて下さるから、だから、むしろ隣人を愛するように神様は仰られた。
ヨアブのこの行動はさらに、クーデターが終わっても悲しみの種が残り、最後、彼はこの罪の報いを、3代目の王、ソロモンから受けることとなる。せっかくクーデターが終わったのに、どうしてこんな形にならなければならないのか。神様に信頼せずに自分で裁きの鉄槌を下す、こぶしを振り上げるという事は、ある意味で神様に対してこぶしを振り上げている事と同じ。気持ちはわかる。仕方ない、と。やらなければやられる、苦しむだけ、それが世の常、と私たちは考えてしまう。
しかし、神様は、私たちを愛するが故、私たちの罪、神様から離れ好き勝手に生きるこの罪、これに対する振り上げられた怒り、こぶしを御子イエス様の上に下された。十字架で身代わりに罰せられ、死なせたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、私たちに和解の道、救いの道を開かれたのです。そこまで愛される神様があなたの内になさろうとする御業にどうして期待できないでいられるだろう。どうして神様は何もしてくださらない、などと言えるだろう。
私たちは神様の御心と戦うのではない、神様の御前に遜ろう。遜るという事は弱者のする事とかではない、神様の御心に委ねられる勇気ある人のする事です。弱くていい、私たちは神様に全てを委ね、神様の御心だけがなる事を切に願い歩もう。あなたがイエス様の前に立ち返るなら、あなたが開けない扉も、復活のイエス様が一緒に開かれ、あなたを導かれるから。