-ただ一つのパン- | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「イエスは彼らを離れて、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。弟子たちは、パンを持って来るのを忘れ、舟の中には、パンがただ一つしかなかった。そのとき、イエスは彼らに命じて言われた。『パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。』そこで弟子たちは、パンを持っていないということで、互いに議論し始めた。それに気づいてイエスは言われた。『なぜ、パンがないといって議論しているのですか。まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。わたしが五千人に五つのパンを裂いて上げたとき、パン切れを取り集めて、幾つのかごがいっぱいになりましたか。』彼らは答えた。『十二です。』『四千人に七つのパンを裂いて上げたときは、パン切れを取り集めて幾つのかごがいっぱいになりましたか。』彼らは答えた。『七つです。』イエスは言われた。『まだ悟らないのですか。』」

マルコによる福音書8章13-21節

 

フランスパン、ドイツパン…なんという話をしたいテーマではなく、唯一真のパン。いのちのパンそれがなければ私たちは生きられない。私たちを生かし、養い、導く、そのパンが何なのか、私たちは悟っているだろうか。私たちは様々なものを持ち歩いても、これがなければ最後は死に行くだけです。私たちは、この命を与えられるパン、イエス様にあって生かされ歩もう。

 

さて、↑は神の御子たるイエス様が人となって生まれてこられ、公生涯を始められていたころの話。イエス様は↑の直前で、約2万人の人を5つのパンと2匹の魚でお腹いっぱいにした(当時は男性しか人数にカウントしていなかったのと、他の箇所では2匹の魚も用意されている。2度、似た奇跡が行われた)、その直後の話。

 

イエス様はそこにはとどまらなかった。どうして?そこで有名人になれば、王様になれば、いいじゃないか、と思いたくなるところ、イエス様は次の所に向かわれた。イエス様の届けたかったのは、一時的な解決や、癒しだけじゃない、もちろんそれもされました、が、それだけではなく、私たちには救い、神様との和解が必要。一時お腹いっぱいになって終わっては意味がない、本当の神様との和解があって初めて、命を得る。魂を飢え渇きさせない命の見ず、パンが私たちに必要、だからこそ、イエス様は出発された。十字架に向け。死に向け。

 

それにしても、一番最後の「まだ悟らないのですか」という言葉は私には耳が痛く、なかなか悟ることができなかった。あの人はこう言っているし、この人はこう言っているし、正解は何なんだ、と。本当に聖書の中でややこしい話の一つ。

 

でも一番最初の弟子たちがパンを持ってくるのを忘れ、船の上にはパン一つしかなかった、というところに全て込められているんだな、ということをようやく知った。私たちには様々な癒しの手段とか、求めるもの、成功、思うものがある。↑にある、パリサイ人のパン種、ヘロデのパン種というのはその一つでしかない。

 

ちなみに、ちょっと聖書になじみがない人のために解説をしますと、パリサイ人というのは、当時の宗教学者だと思えばわかりやすいと思います。ちなみに、バリサイ、というのは分離、という意味があるそうですが、世と分離させる、罪と分離させるつもりが、彼らは神様と民を分離させる教えを広げ、救い主が来られていてもむしろそこから引き離し、救い主イエス様を殺そうといつももくろんでいた。

 

あ、別にこれはその人たちがイエス様の命を狙うから気をつけなさい、という事ではないですよ?そうした神様から引き離すものはパン種のように最初小さくてもどんどん大きく膨らませていく、それでお腹いっぱいになって満足する、神様なんていなくても必要は満たされているじゃん、と引き離していくわけです。

 

で、ヘロデ、当時のユダヤを治めることを任されていた人(一応王、として任命はローマ枯らされていた)、他の箇所ではサドカイ派となっているのですが、サドカイ派は復活を信じない。この世の栄華をある意味で求める。ヘロデ王もそうだったことを考えればどっちも同じですが、この世に栄華を求めても、それは最後にはしぼんでいく。

 

しかし、神様の与えるものは決してしぼむことのない命をもたらす。私たちはあれが足りないこれが足りないと探し求めるけど、本当にそこにある大切な一つ、パン、イエス様を見逃していないだろうか?これを希望的観測、自分の一時的な慰め、助け、程度で見ていないだろうか。あなたの小舟に乗るイエス様は、あなたのために命さえ惜しまず与え、十字架であなたの身代わりに罰せられ、死なれた。

 

しかし3日目によみがえられたことによって、イエス様の十字架の前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様と和解させてくださり、神様の子としてくださる、その特権を与えられる。その中に全てがある。5つのパンと2匹の魚さえ神様は十分に増え広げ満腹にさせた以上に、このたった一つの救い、たった一人の救い主、たった一度の十字架と復活にあってあなたに永遠の命を与えて下さる。このイエス様の命にあって私たちのすべてを満たされ、導かれる。保証されるのです。

 

今日、自分の小舟に誰が載ってくださっているのかをもう一度思い起こそう。そしてこの方に先導を委ね、導かれ、歩もう。その時、どんな嵐が来ようとも、どんな苦難が来ようとも復活のイエス様が一緒に進まれ、イエス様が、イエス様が見せたい目的地に連れて行ってくださる。この方に信頼し、今日も歩もう。