-助言が優れているのか助言者が優れているのか- | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「アヒトフェルはさらにアブシャロムに言った。『私に一万二千人を選ばせてください。私は今夜、ダビデのあとを追って出発し、彼を襲います。ダビデは疲れて気力を失っているでしょう。私が、彼を恐れさせれば、彼といっしょにいるすべての民は逃げましょう。私は王だけを打ち殺します。私はすべての民をあなたのもとに連れ戻します。すべての者が帰って来るとき、あなたが求めているのはただひとりだけですから、民はみな、穏やかになるでしょう。』このことばはアブシャロムとイスラエルの全長老の気に入った。しかしアブシャロムは言った。『アルキ人フシャイを呼び出し、彼の言うことも聞いてみよう。』フシャイがアブシャロムのところに来ると、アブシャロムは彼に次のように言った。『アヒトフェルはこのように言ったが、われわれは彼のことばに従ってよいものだろうか。もしいけなければ、あなたの意見を述べてみなさい。』するとフシャイはアブシャロムに言った。『このたびアヒトフェルの立てたはかりごとは良くありません。』フシャイはさらに言った。『あなたは父上とその部下が戦士であることをご存じです。しかも彼らは、野で子を奪われた雌熊のように気が荒くなっています。また、あなたの父上は戦いに慣れた方ですから、民といっしょには夜を過ごさないでしょう。きっと今、ほら穴か、どこか、そんな所に隠れておられましょう。もし、民のある者が最初に倒れたら、それを聞く者は、【アブシャロムに従う民のうちに打たれた者が出た】と言うでしょう。そうなると、たとい、獅子のような心を持つ力ある者でも、気がくじけます。全イスラエルは、あなたの父上が勇士であり、彼に従う者が力ある者であるのをよく知っています。私のはかりごとはこうです。全イスラエルをダンからベエル・シェバに至るまで、海辺の砂のように数多くあなたのところに集めて、あなた自身が戦いに出られることです。われわれは、彼を見つけしだい、その場で彼を攻め、露が地面に降りるように彼を襲い、彼や、共にいるすべての兵士たちを、ひとりも生かしておかないのです。もし彼がさらにどこかの町に入るなら、全イスラエルでその町に綱をかけ、その町を川まで引きずって行って、そこに一つの石ころも残らないようにしましょう。』アブシャロムとイスラエルの民はみな言った。『アルキ人フシャイのはかりごとは、アヒトフェルのはかりごとよりも良い。』これは主がアブシャロムにわざわいをもたらそうとして、主がアヒトフェルのすぐれたはかりごとを打ちこわそうと決めておられたからであった。フシャイは祭司ツァドクとエブヤタルに言った。『アヒトフェルは、アブシャロムとイスラエルの長老たちにこれこれの助言をしたが、私は、これこれの助言をした。今、急いで人をやり、ダビデに、【今夜は荒野の草原で夜を過ごしてはいけません。ほんとうに、ぜひ、あちらへ渡って行かなければなりません。でないと、王をはじめ、いっしょにいる民全部にわざわいが降りかかるでしょう】と告げなさい。』」

Ⅱサムエル記17章1-16節

 

私たちは誰しも助言を、ないし自分の助けになるようなアドバイスを求める。どんな偉い人でも。優れた人には意外にその陰には助言者がいたりするもの。助言を求める事は別に悪いことではない。でも何が正しい助言なのか、真実に正しい助言者は、あなたを愛し、あなたのために御子イエス様の命さえ惜しまず与える神様。今日、私たちはこの神様に祈ろう。この神様に信頼し、導かれ、従い歩もう。

 

さて、↑は古代イスラエル王国2代目の王ダビデの治世、ダビデの息子アブシャロムによってクーデターが起こされ、ダビデは都落ちすることとなるのでした。アブシャロムは妹が、腹違いとはいえ兄アムノンに辱められ、屈辱的に捨てられた、その逆恨みに兄アムノンを殺し、父の怒りを買い、逃げるも、父の憐みというか神様の憐みによって国に戻された。しかしその神様の憐みを不遇と考えたか、クーデターを起こすのでした。民の心を盗み取って。

 

それにしても、↑のやり取りにも共通することなのですが、もしアブシャロムに神様の声に耳を傾ける謙遜差があれば。神様に委ねていたなら神様は何か彼の代わりにされたでしょう。私たちの想像つかないことを。ないし本当に正しい助言者がいれば。それだけでも結果は違ったかもしれない。

 

↑には登場しませんが、前の方の章で、都落ちの際、多くの助け手がダビデのもとに駆け付けました。ダビデの助け手だった、↑に登場するアヒトフェルは、泥船に沈むのも、とアブシャロムについた、裏切った。相当の知者だったようですが。しかしその知者と思われていたアヒトフェルはこの船には神様が乗って導かれているという事を理解していなかった。たとえ人の目に不遇でも、神様が一緒の船ほど安心なことはない。

 

そういえばイエス様が嵐の中の小舟の中で寝たり、歩いたり、弟子を歩かせたこともあった。神様が一緒にいるという事は、私たちが想像する道とは、出来事とは違う何かを体験させ、また見させてくださるのです。

 

話は戻して、アヒトフェルは自分の地位を確たるものにするためか、ダビデを討つために12,000人の兵を与えてほしい、必ず打ちます、とアブシャロムに進言します。しかし、ダビデの元に駆け付けるも、むしろアブシャロムの内部に戻されていたフシャイ。彼はアブシャロムやアヒトフェルに裏切り者と殺されることを覚悟の元、そこにいた。彼は神様が共にいる確信があった。

 

そのフシャイは作戦としてはある意味でアヒトフェルの助言は正しかったけど、それを神様は止めさせた。逆の進言をして殺されるかもしれない、とは恐れずに。神様に彼は委ね、正しい、ダビデを守る進言をし、アブシャロムが先頭に立って戦う事となり、アブシャロムは最後、将軍ヨアブに討たれることになる。

 

ただ、ダビデは彼の死を望んでいなかったが、ヨアブのアブシャロムへの恨みによってアブシャロムは殺される形となるわけですが。ちなみに、そのヨアブへの報いも後のソロモン王の時代にあります。

 

↑の手に汗握るやり取りの中で、フシャイは正しい助言者は誰なのか、その助言者なる神様に耳を傾けていた。12,000人の兵がダビデを討つ可能性など考えなかった。神様が共にいる。神様が知恵を与えて下さった。ならそれをそのまま語ろう、そのまま実行しようと。

 

肉の目に見たら、12000千人の兵をダビデに向ければ勝つことは間違いない。しかし、どんなに厳しい状況、不遇な状況にあろうとも、たった一人の、というか神様の前にはそれら敵の計画、あなたを悩ませる状況、これらは打ち砕かれるのです。どんな悪も苦難も、神様の計画を、神様の御心を打ち破る事は出来ません。

 

少し先の時代になりますが、預言者イザヤという人がこのように預言(神様から言葉を預かりそのまま語る事)しました。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」と。

 

ある人にとっては神様に頼ることは不思議、と思うかもしれない。その仰ること、導かれること、不思議と思うかもしれない。しかし神様は御子イエス様を通してこの不思議を最高の形であらわされる。導かれる。最高の助言者、あなたの内に御力を現され、永遠に導かれ、平和を成し遂げられる。最終的な平和はまだ先の時代になりますが、しかし、イエス様の十字架によって私たちの罪、神様から離れ好き勝手に生きるこの罪を身代わりに背負われ死なれたことによって、いやそれだけではなく3日目によみがえられたことによって、神様は私たちとの間に和解をなしてくださった。

 

この和解ゆえに、私たちの内に不思議なる助権者イエス様は住まわれ、あなたを導かれる。命をかけてまであなたを取り戻されたイエス様の御心が、その御力が現され、導かれる。イエス様があなたの内に平和を成し遂げて下さる。私たちはこのイエス様と敵対するものではなく、祈り、従い、歩もう。