-和解工作- | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ツェルヤの子ヨアブは、王がアブシャロムに敵意をいだいているのに気づいた。ヨアブはテコアに人をやって、そこからひとりの知恵のある女を連れて来て、彼女に言った。『あなたは喪に服している者を装い、喪服を着て、身に油も塗らず、死んだ人のために長い間、喪に服している女のようになって、王のもとに行き、王にこのように話してくれまいか。』…テコアの女は、王に話したとき、地にひれ伏し、礼をして言った。…彼女は答えた。『実は、この私は、やもめで、私の夫はなくなりました。このはしためには、ふたりの息子がありましたが、ふたりが野原でけんかをして、だれもふたりを仲裁する者がいなかったので、ひとりが相手を打ち殺してしまいました。そのうえ、親族全体がこのはしために詰め寄って、【兄弟を打った者を引き渡せ。あれが殺した兄弟のいのちのために、あれを殺し、この家の世継ぎをも根絶やしにしよう】と申します。あの人たちは残された私の一つの火種を消して、私の夫の名だけではなく、残りの者までも、この地上に残さないようにするのです。』王は女に言った。『家に帰りなさい。あなたのことで命令を出そう。』テコアの女は王に言った。『王さま。刑罰は私と私の父の家に下り、王さまと王位には罪がありませんように。』王は言った。『あなたに文句を言う者がいるなら、その者を、私のところに連れて来なさい。そうすれば、もう二度とあなたを煩わすことはなくなる。』そこで彼女は言った。『どうか王さま。あなたの神、主に心を留め、血の復讐をする者が殺すことをくり返さず、私の息子を根絶やしにしないようにしてください。』王は言った。『主は生きておられる。あなたの息子の髪の毛一本も決して地に落ちることはない。』…女は言った。『あなたはどうして、このような神の民に逆らうようなことを、計られたのですか。王は、先のようなことを語られて、ご自分を罪ある者とされています。王は追放された者を戻しておられません。私たちは、必ず死ぬ者です。私たちは地面にこぼれて、もう集めることのできない水のようなものです。神は死んだ者をよみがえらせてはくださいません。どうか追放されている者を追放されたままにしておかないように、ご計画をお立てください。今、私が、このことを王さまにお話しにまいりましたのも、人々が私をおどしたからです。それで、このはしためは、こう思いました。【王さまにお話ししてみよう。王さまは、このはしための願いをかなえてくださるかもしれない。王さまは聞き入れて、私と私の子を神のゆずりの地から根絶やしにしようとする者の手から、このはしためをきっと助け出してくださるでしょうから。】それで、このはしためは、【王さまのことばは私の慰めとなろう】と思いました。王さまは、神の使いのように、善と悪とを聞き分けられるからです。あなたの神、主が、あなたとともにおられますように。』」

Ⅱサムエル記14章1-17節

 

私たちは何が正しく何が間違っているのか、中々理解することが難しい。私たちは正しい判断を失ってしまう事が多々ある。だからこそ私たちは正しい方、神様の声をよく聴こう。そして、神様の導気に信頼し歩もう。それが苦難の道でも、神様が共におられる、その事は変わらない事実なのだから。

 

さて、↑は古代イスラエル王国2代目の王ダビデの治世で起こった悲しみの事件の後の話。何があったのか。ダビデの長男アムノンは、異母兄弟アブシャロムの妹タマルに恋をして、何とかしたいと思い悩んでいたところ、ヨナダブの助言により、仮病を使って、タマルに病人食を作ってもらい食べさせてもらい、床を共にしよう、と目論み実行します。ところが、熱愛が冷めたのか、罪に苛まれたか、彼女を酷く嫌い、自分の家から追い出した。それはもっと悪いことだ、とタマルは抵抗しますが、召使に追い出され、外で悲しんだ。その妹を思うアブシャロムは、復讐を企て、2年後、アムノンを撃ちえ殺すのでした。その後、ダビデを恐れて3年隠れていた。その後の話が↑。

 

それにしても思うのは、アムノンの一時の情欲、これくらい別にいい、は結局ろくなことを生まない。神様との関係もそうですよ?これくらいまあいいじゃないか、という妥協は、決して良いものを生み出さない。神様はベストをあなたに注ぎたい、でも私たちは神様を侮る時、そこまで真剣にならなくても、と思い始める時、その隙間をサタンは狙ってくる。

 

またアブシャロムも、復讐心を持つ気持ち、妹を思う気持ちはわかる。でも、ダビデを恐れるくらいならどうして、ダビデに最初から話さなかったのか?アムノンを愛していたから?でも、もし正直に話をしていたなら、神様はダビデの内に語られるなり、ナタンを通して正しい道へと導かれていたのではないか。

 

神様は↑でどこにも登場していないように見えますが、神様が不在なんて事はない。私たちが、勝手に神様を不在にさせている。神様は、いつでも私たちに語っている、でも私たちが神様に対して沈黙すれば何の意味もない。神様の語り掛けに応答する時、神様とあなたが結ばれるのです。

 

ダビデはこの問題を神様に委ねなかったゆえ、3年たってもなお、アムノンの事で頭の中がいっぱい。それはそう、息子が殺された。でも彼は後に、アブシャロムがヨアブに殺された時、自分が死ねばよかったんだ、と告白する。変えられていった。神様が↑のように介入される時、変えられるのです。

 

↑でヨアブは、「王がアブシャロムに敵意をいだいているのに気づいた」とあります。正確には、王の心がアブシャロムの上にあった、という意味のようです。そもそも、何かあるときに私たちの心が問題自体の上に心を置いてはいけない、向けてはいけない、神様の上に向けるべきではないだろうか。

 

自分の思いを正直に告白すればいい。アブシャロムは曖昧にして、自分の計画を成し遂げ実行し、アムノンを殺し、復讐を完遂させた、けど、残ったのは虚しさ。しかし神様はヨアブを通して何とか和解させたいと働かれていたのではないか。もちろんヨアブは、何とかこの二人を和解させ、自分の立場を次の王になった時に維持したい、という思いがあったのかもしれないですが。

 

ただ私たちは神様から離れている内は、罪の中にある時、ほかの問題との和解の前に、神様と和解し、神様の御心を求めない限りは何も始まらないのです。↑の女性の話は端的に言うと、だから3年もそのまま追放したままでいるのではなく、どうか赦してやってほしい、和解してほしい、アブシャロムを国に返してほしい、というメッセージなのですが、最終的な願いは、「王さまは、神の使いのように、善と悪とを聞き分けられるからです。あなたの神、主が、あなたとともにおられますように」、ここにある。

 

私たちは神様にあって善悪を聞き分ける必要がある。神様が私たちと共におられ、導かれる、だからこの神様に聴く必要がある。正直この事件はもうめちゃくちゃ。でも私たちが歩む中ではめちゃくちゃなことは山ほどある。

 

その中で、私たちが慰めを受けるのは、その問題との和解ではなく、まず神様との和解、神様に立ち返る、そこから私たちは本当の、↑の女性が語るように慰めを受けるのです。御心が溢れるのです。↑でヨアブは知恵のある女性を連れてきましたが、本当に知恵のある人は神様の言葉を聞き、それを受け入れます。従います。

 

神様は、御子イエス様の命を十字架に身代わりにしてまであなたを赦し、受け入れようとされた。和解されようとされた。それほどにあなたを愛し、あなたに本当の慰め、命、回復、新しいあなたへと導こうとされたのです。イエス様の復活と共に。

 

どうか今日、ヨアブの不純な動機による和解工作ではなく純粋な愛による和解の御手を差し伸べられた神様のこの愛を受け入れよう。完全なる和解を成し遂げようと御子イエス様の命さえ惜しまなかった神様の心はあなたの上に向かっている。私たちも、この神様の、十字架の愛に心を向け、神様の御心をなお求めるものであろう。本当に知恵あるもの、神様の御心に従う者であろう。