-自立と、身に帯びるべきものと- | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「…彼はカルメルで事業をしており、非常に裕福であった。…この人の名はナバルといい、彼の妻の名はアビガイルといった。この女は聡明で美人であったが、夫は頑迷で行状が悪かった。彼はカレブ人であった。ダビデはナバルがその羊の毛を刈っていることを荒野で聞いた。それで、ダビデは十人の若者を遣わし、その若者たちに言った。『カルメルへ上って行って、ナバルのところに行き、私の名で彼に安否を尋ね、わが同胞に、こうあいさつしなさい。【あなたに平安がありますように。あなたの家に平安がありますように。また、あなたのすべてのものに平安がありますように。私は今、羊の毛を刈る者たちが、あなたのところにいるのを聞きました。あなたの羊飼いたちは、私たちといっしょにいましたが、私たちは彼らに恥ずかしい思いをさせたことはありませんでした。彼らがカルメルにいる間中、何もなくなりませんでした。あなたの若者に尋ねてみてください。きっと、そう言うでしょう。ですから、この若者たちに親切にしてやってください。私たちは祝いの日に来たのですから。どうか、このしもべたちと、あなたの子ダビデに、何かあなたの手もとにある物を与えてください。】』…ナバルはダビデの家来たちに答えて言った。『ダビデとは、いったい何者だ。エッサイの子とは、いったい何者だ。…どこから来たかもわからない者どもに、くれてやらなければならないのか。』それでダビデの若者たちは、もと来た道を引き返し、戻って来て、これら一部始終をダビデに報告した。ダビデが部下に『めいめい自分の剣を身につけよ』と命じたので、みな剣を身につけた。ダビデも剣を身につけた。…そのとき、ナバルの妻アビガイルに、若者のひとりが告げて言った。『ダビデが私たちの主人にあいさつをするために、荒野から使者たちを送ったのに、ご主人は彼らをののしりました。あの人たちは私たちにたいへん良くしてくれたのです。私たちは恥ずかしい思いをさせられたこともなく、私たちが彼らと野でいっしょにいて行動を共にしていた間中、何もなくしませんでした。私たちが彼らといっしょに羊を飼っている間は、昼も夜も、あの人たちは私たちのために城壁となってくれました。今、あなたはどうすればよいか、よくわきまえてください。わざわいが私たちの主人と、その一家に及ぶことは、もう、はっきりしています。…』そこでアビガイルは急いでパン二百個、ぶどう酒の皮袋二つ、料理した羊五頭、炒り麦五セア、干しぶどう百ふさ、干しいちじく二百個を取って、これをろばに載せ、自分の若者たちに言った。『私の先を進みなさい。私はあなたがたについて行くから。』…」

Ⅰサムエル記25章2-19節

 

私たちは服を着ます。小さい頃は親の選んだ物を、大きくなると自分で。その時着るものは自分の思いが現れます。時には何かを隠すために。時には自分を着飾り自分をよく見せるために。私たちにはイエス様という最高の衣がある。私たちはこのイエス様の命にあって与えられた衣を着、建て上げられ歩もうではありませんか。

 

さて、↑は古代イスラエル王国初代王サウルの12年の治世の中での出来事。そして、ダビデはこのサウル王の嫉妬によって命を狙われ国を追われ、今逃走している。ペリシテの巨人や多くの敵を打倒したある意味で国の英雄、しかも民の心が自分から離れていく事を恐れたサウルはダビデを取り込もうとして娘ミカルと結婚させた家族なのに。彼は自分の誇りという名の服によって着飾って、神様が与えて下さるものに決して信頼していなかった。

 

神様はサウルを見限った段階で神様はダビデをすぐに王にできるのに、それをせず、ダビデを助け手として置いて下さった。その憐みさえ忘れ、そのダビデを殺そうと追い掛け回す。本当に自分に、脅威をもたらすのは何なのか、それを見誤っていた。それはイスラエルを囲う敵であり、同時に神様から離れている自分自身、その罪が自らを追い込んでいた、それを知らずに迷走し続けていたのでした。

 

そんな中、ダビデの逃走を助けていた、いやイスラエルの国家、またダビデを次の王として選びだした、メンターとなっていたサムエルが天に凱旋し、ダビデはある意味では孤立状態となった。彼の周りには今は600人の仲間が確かにいる。でも、サムエルはある意味では心の支えだった。

 

でも、私たちにとって大事なのは、誰がいるから大丈夫、あれがないからダメ、ではなく、神様が私たちを養われる、この確信に立ち、祈り、御心を求め、委ねる、このことが大切なのです。その神様が与えて下さる衣、神様という衣、神様ご自身によって私たちの身は整えられていくのです。

 

自立、というと立派になるようなイメージがありますが、自立したってほんとうにいのちあるあゆみがなければ意味がない。創世記でアダムとエヴァが夫婦となった時も、神様はその両親を離れ一体となる。古い自分から離れ、神様に結び合わされ、本当の意味で自立した生きた者となるのです。

 

↑は、そんなサムエルが死んだ直後最初の出来事。彼らは食料などが失われた。さて、どうしたものか、というところ、ナバルとアビガイル夫妻の所に若者を遣わし、なんとか助けてくれないか、と丁寧にごあいさつをし、助けを求めます。

 

しかし残念ながらどこの馬の骨ともわからないやつ、しかも王に逆らい国を追われるような男を助ける義理はない、と突っぱねます。それに対してダビデは身に剣を帯びてなんと、戦の準備を始めようとするのです。え?自分たちを助けてくれないから戦を仕掛ける?もちろん、ナバルは困った人を受け入れなかった。でも神様に生かされ謙遜だった姿が見えない。

 

ただ、ここに神様はアビガイルという聡明な女性をダビデの助け手として与えたのです。サムエルを失い、ある意味で判断能力が少し失われたのか、彼は神様に尋ね求めなかった。次の王になる私を、これだけ丁寧に頭を下げても助けないとは何事か、と怒る前に、柔和な心が彼には必要だったのではないか。

 

ちなみに明日分かち合いますが、アビガイルは夫のことを謝罪し、彼らに必要なものを与えます。と同時に、このことでダビデが罪を犯すべきではない、神様の御手に委ねる柔和な者でありましょう、と進言します。

 

私たちは神様の前にダビデのような不遜な者にならないよう気を付けたい。また、アビガイルのように神様の御心に信頼し、どうなるか行って確かめてくる、委ねる、そのような柔和な者でありたい。神様は与えて下さる神様。私たちが神様などいらない、救われた私は自分一人で頑張る、と間違った自立をし、間違った刀を振りかざそうとせず、主の御心の前に柔和、受け入れ委ねる者でありたい。

 

私を助けない神様は何者か、と不遜になる必要はない。神様は、あなたのためにかのクリスマス御子イエス様を人間となって生まれてこさせた。これ以上ない謙遜。イエス様は私は神の御子だぞ、ひれ伏せ、とは決して言わずに仕えた。奴隷の仕事だって喜んでされた。そこまで遜ってもその愛を現され、癒され、励まされ、最後は私たちの罪の身代わりに十字架にかかられ死なれたのです。

 

しかし3日目によみがえられた事によって、この十字架の前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し神様の子として下さる。私たちはこの復活のイエス様を着せていただき、歩ませていただける、神様がその愛によって導かれるのです。

 

ダビデにアビガイルという助け手を神様が送られたように、神様はいつでもその御手を、御子イエス様の愛、いのちゆえにいつも伸ばされ、あなたの内にいのちの実を、ダビデには柔和の実を結ばせ、整えられたようにあなたをも整え、助け、導かれる。私たちはこの神様の遣わされたイエス様の命、与えられる御心の前に謙遜、柔和となろう。サウルのように自分に脅威を与える相手を間違ってはいけない。神様は救い、命をかけ、与える、導かれる神様。脅威はこの神様から離れる罪。救われたら神様がいらないのではない、むしろ神様にあって立ち上がらせていただき神様の御心に生かされ歩もうではありませんか。