「イスラエルの王レマルヤの子ペカの第二年に、ユダの王ウジヤの子ヨタムが王となった。彼は二十五歳で王となり、エルサレムで十六年間、王であった。彼の母の名はエルシャといい、ツァドクの娘であった。彼は、すべて父ウジヤが行なったとおり、主の目にかなうことを行なった。ただし、高き所は取り除かなかった。民はなおも高き所でいけにえをささげたり、香をたいたりしていた。彼は主の宮の上の門を建てた。ヨタムの行なったその他の業績、それはユダの王たちの年代記の書にしるされているではないか。そのころ、主はアラムの王レツィンとレマルヤの子ペカをユダに送って、これを攻め始めておられた。ヨタムは彼の先祖たちとともに眠り、先祖たちとともにその父ダビデの町に葬られた。彼の子アハズが代わって王となった。」
Ⅱ列王記15章32-38節
神様は、一時しのぎとなるようなレベルの力や御心を注ぎたいのではなく、あなたの腹の底から湧き上がる泉によってあなたを力づけ、また養い導かれる。これは決して枯れることはない。私たちはこの肝心な神様につながり続け、日々歩もう。肝心な時に、見失ってはいけない、神様から決して目を離してはいけない。
さて、↑は古代イスラエル王国、紀元前739年。歴史に詳しい方はこの数字は想像つくと思いますが、アッシリヤ捕囚に北イスラエルが合う直前当たりの時代です。というか、イスラエルと関係なくすでにアッシリヤは世界の覇権を握っていた。そんな時代にあって、南ユダは新しい王、ユタムの治世となっていた。
南ユダも、徐々に北イスラエルの影響で、神様神様言っている場合じゃない、と離れ始めています。そんな中で、↑に登場するヨタムという人は、神様に従う決断をしました。本当の底力は人間の内にあるのではない、私たちを生かし、愛し、この国を支え、私たちを支える神様ら来る、その確信の元、彼は神様により頼みます。神様の目にかなうことを行っていた、形上。
具体的に彼が何をしたのか、他の書簡を見てみると、彼は神様の宮の工事を行いました。門を建て、城壁を強化、街々を建て、森林地帯にも城壁を建てることで、民の安全を試みた。また、アモンという敵国を抑え、勝利を治め、彼の治世の勢力はとても強くなった、とあります。書いてあることをまとめると大体そんな感じ。もしもっと詳しく知りたければ、2歴代誌27章というところを聖書ないし、ネットで見ていただければわかると思います。
なんだ、いい王じゃん、と思いたくなるところですが、彼にはいくつか問題があった。まあ正直、この世の中完璧なひとなんかいない。そうなんです。神様を信じていようと、いまいと、完璧な人はいません。だから、なんです。だからこそ私たちには神様が必要なんです。
彼は形の上では神殿を建てあげていたし、先ほど挙げた書簡をみると、1つの問題があった。それは「主の神殿に入ることはしなかった」。それゆえにか、「民は依然として滅びに向かっていた」と。一方で彼への神様の評価は、「彼が、自分の神、主の前に、自分の道を確かなものとしたからである」と、その勢力が増した理由を述べています。
彼のしたことを見ると、民を守るためか、森林のエリアにも城壁を建てることによって、民の「物理的な」安全は確保していた。でも、城壁というのはいつかは崩れるものです。歴史に詳しい方はご存知、イスラエルのその城壁は、バビロン捕囚によってもろくも崩れ去る、また再建を後の時代にしても、ローマ帝国によって完全に砕かれてしまった。
実に、本来の私たちの砦、城壁となるのは神様なのです。あなたの魂を守る城壁となるのは神様です。彼は、民のためにとりなし祈ることを願い求めず、また、民たちには別に好きなところで祈ればいい、と異教の神々に祈る場所を残しておいた。王として本来提供すべき最善のものを用意せず、神様という最高の救いを導かなかった。私たちの魂を奪い去るものを残したままにしていた、この点においてはとても残念だった。
コロナを見てもわかるかもしれませんが、私たちは正しい情報、方向に進まない限りは回復していかない。私はこれでいい、あの人はこうしているけど私は私だ、と別な方向に進んでいけば、全体が崩れていきます。確かに小手先の手は一時的なしのぎを与えても、底力にはならない。
本当に大事なのはまさにここなんです。私たちはどんなに小手先で、あれをしよう、これをしようと、手を変え品を変えても、神様との関係が本当の意味で築かれない限りは、本当の意味での底力は生まれない。それは小手先なことによって確かに彼の勢力は増し加わった、けど、実は↑の一番最後にあるように、今北イスラエルとアラムが手を組んで南ユダに迫ってこようというときに大ピンチを迎える。ここで本来頼るべき神様を見失わせていた。結局、アッシリヤ帝国に貢物をすることによって、一時的に味方になってもらうも、そののち自分たちの首をしばし絞める事となるのです。
ヨタムは宗教的な行為はたぶん一生懸命固めたんだと思う。でも、根本的なリアルな神様との関係が築けていなかった。神様の声を聞きに主の宮に入らなかった。私たちもそう、一時的に信じた、でも問題が去れば神様から離れる、といった見せかけの宗教行為は決してあなたの底力とはならない。そもそも、そのような本当の魂の底力は、自分で生み出していくのではなく、神様ご自身の内から湧き上がってくるのです。私たちは決して宗教行為をするのではない、神様の求めていることも宗教行為ではなく、神様ご自身に私たちがつながることなのです。
ヨタムの勢力が増し加えられた、それは「神様が」増し加えるからこそ、本当の意味で大きくなる。だって神様という、神様の御力という勢力があなたと共にある、だからこそ私たちはこの悲しみ、↑でいうならアッシリヤですが、私たちを囲む罪の勢力、サタンにタッチ向かい、勝利の日を「神様が」迎えさせて下さるのです。
自分が、自分の神、主の前に、自分の道を確かなものとするのが大事なのではない、神様が、私たちの道を確かにしてくださる、だから私たちは恐れる必要がない。あなたの内に住まわれる聖霊様があなたの内に、あなたの魂の底から、枯れる事のない、尽きる事のない泉を湧き起らせ、あなたにその御心を現されるのです。それだけじゃない、そこからあなたの周りに神様の御心、命が溢れ流れ、そこは神様の御心の地、御国へと変えられていくのです。ヨタムでいうなら、民へと溢れ流れるのです。
イエス様は十字架にかかる前にこのようなことをおっしゃられていた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」と。
これは、神の御子たるイエス様の十字架によって、成就された。イエス様が、私たちの代わりに受難され、その苦い杯、裁き、死を引き受けられたことによって、信じ受け入れる、イエス様の前に立ち返るすべての人に、復活のいのち、泉を湧き起らせる。この復活のイエス様が住まわれるゆえに、あなたの魂の底に、神様の底力が沸き起こり、あふれる。そして多くの実を結んでいくのです。
上に少し書きましたが、私たちは完ぺきではない、だからこそ、この神様が必要なんです。あなたに尽きる事のない勢力、聖霊様が、神様の御心が共にあり、復活のイエス様があなたと共に世の終わりまで歩まれる。
今こそ私たちはこのイエス様のいのちをいただこう。自分の小手先や思いで神様との関係を建てあげるのではなく、神様の御心にあって、神様に建てあげ、導いていただこうではありませんか。そしてその先に神様の見せる栄光を、勝利を、共に仰ぎ見ようではありませんか。神様はイエス様ひとり勝利、で終わりではなくこの復活の恵みをあなたにも見せようと、その命まで差し出された。だから私たちもこの命をいただき、またこの愛をもって世に出ていき、仕え、歩もうではありませんか。神様の御心がなるよう祈りながら。