「ユダの王アハズヤの子ヨアシュの第二十三年に、エフーの子エホアハズがサマリヤでイスラエルの王となり、十七年間、王であった。彼は主の目の前に悪を行ない、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪を犯し続けて、それをやめなかった。それで、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らをアラムの王ハザエル、および、ハザエルの子ベン・ハダデの手にいつまでも渡しておられた。しかし、エホアハズが主に願ったので、主はこれを聞き入れられた。アラムの王のしいたげによって、イスラエルがしいたげられているのを見られたからである。主がイスラエル人にひとりの救い手を与えられたとき、イスラエルの人々はアラムの支配を脱し、以前のように、自分たちの天幕に住むようになった。それにもかかわらず、彼らはイスラエルに罪を犯させたヤロブアム家の罪を離れず、なおそれを行ない続け、アシェラ像もサマリヤに立ったままであった。また、アラムの王が彼らを滅ぼして、打穀のときのちりのようにしたので、エホアハズには騎兵五十、戦車十台、歩兵一万だけの軍隊しか残されていなかった。エホアハズのその他の業績、彼の行なったすべての事、およびその功績、それはイスラエルの王たちの年代記の書にしるされているではないか。…ユダの王ヨアシュの第三十七年に、エホアハズの子ヨアシュがサマリヤでイスラエルの王となり、十六年間、王であった。彼は主の目の前に悪を行ない、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムのすべての罪から離れず、なおそれを行ない続けた。ヨアシュのその他の業績、彼の行なったすべての事、およびユダの王アマツヤと戦ったその功績、それはイスラエルの王たちの年代記の書にしるされているではないか。…」
Ⅱ列王記13章1-13節
ごめんなさい、ということばは人はなかなか言いづらい。でも、ごめんなさいといったことで、和解されれば、その絆は深まる。神様は私たちが神様に立ち返ることを願い、御子イエス様にあってその道を開かれた。それならその先に待つものにどれだけ期待できるだろう。今日、私たちは神様に立ち返り、この命の道を歩もう。私たちはこの神様にあって今日生かされているのだから。
さて、↑は紀元前北イスラエルの歴史の記録です。王については↑に書いてある通り、南ユダはヨアシュ。彼は、最悪の王妃イゼベルの娘、アタルヤのクーデターにより、子供たちが殺されていった中、ヨアシュだけは助けられ守られ、7歳で王となりました。ただ、彼もだんだん、神様なんていらない、と離れていって最後は部下に謀反を起こされ、殺された。これだけ最高の恵みによって王になった、生かされた彼は、神様に知恵を求めず好き勝手に生き始め、結果は惨めな死だった。
一方、その彼の治世の23年、北では、エフ―の子エホアハズが王となっていた。で、このエフ―、彼は、当時北イスラエルを苦しめるイゼベルとアハブの血筋によって国が疲弊(子供を火にくべ、淫行を強要する、気に食わないものは殺して財産を奪うなどなどの悪政によって)し切っていた。その悪の根源を討ち、王として国を治めるよう、神様は彼を導き、アハブ王朝を打ち砕いた。もう、国の英雄そのものと言ってもいい。
そんな素晴らしい恵みにあずかったエフ―の姿を見、その子として王位に就かせていただいた、にもかかわらず、息子エホアハズは神様に逆らい続けた。神など信じても何の足しにもならないだろう、と。↑にヤロブアムの罪、要するに、彼は自分に注目を集める、神よりも私に従え、と自分が神であるかのようにふるまっていた。
神様は私たちを愛し、生かそう、その御心を注ぎたいと考えている、でも、私たちがいらない、とその扉を閉めてしまったら、神様の道から離れたら、どうしてその恵みを受けることができるだろうか?エホアハズについて、彼を神様は、「アラムの王ハザエル、および、ハザエルの子ベン・ハダデの手にいつまでも渡しておられた」と。神様などいらない、私が神だ、と好き勝手な道を選んだのだからある意味で自業自得ではないか。
しかし、驚くべきことに、エホアハズが悔い改める、わかりやすく言うとごめんなさいをし、方向転換・改めることなのですが、悔い改めた彼を見た神様は、「主(神様)がイスラエル人にひとりの救い手を与えられ」、彼等はアラムの支配を脱し、以前のように、自分たちの天幕に住むようになった、というのです。神様はやり直しの機会を、というよりも、神様と共に生きる新しい恵みに、住まいに招かれたのです。
ただ、残念なのは、↑にもある通り、結局喉元過ぎれば熱さを忘れる、じゃないですが、すぐに神様から離れていった。神様が救い出されたいのち、その恵み、大きさを全然理解していなかった。これまで自分の栄光だ、と思っていたものが失われ、本当に大切なものを神様が今与えてくださっているのに。
これは本当に大事。私たちの生死を分けるのは、この神様に立ち返るかどうかにある。私たちの今の時代、コロナ問題で本当に暗闇の中にあって、これまで当たり前と思っていたこと、自分の好き勝手に生きてきて得たものも、あっさりと崩れ去り、支えていないことを知っただろう。
でも、私たちには希望が残されている、神様がもう一度私たちを、朽ちる事のない永遠の命、恵みをもって包んでくださる。人間が作り出す希望ではなく、神様発の希望、暗闇の中にあっても輝かせてくださる。あなたはこれを信じられるだろうか?でも、これが生死を分けるのです。
ヨハネというイエス様の12弟子のひとりがこのように手紙に書き残しています。「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださります」。イエス様が、私たちの内に生きた交流、御心、魂の関係を結ばせ、私たちの疲れ、汚れ、罪、全てを洗い清めてくださる。そして「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます」。私たちがごめんなさい、悔い改める時、私たちのすべての罪は帳消しにされ、古いものは洗い清められ、神様のいのちがあなたを覆うのです。
それはイエス様の十字架と復活によって実現される。そういえば、イエス様が十字架にかかる前、イスカリオテのユダはイエス様を銀貨30枚で売り、イエス様が十字架にかかるきっかけを作った。でもイエス様は、最後の晩、それを知りながら、ユダを最後の晩餐にほかの弟子たちと一緒に招き、最後の最後まで愛を注ぎ、悔い改めに導こうとされた。でもユダは十字架を見ることなく、悔いて終わり、自殺した。
一方イエス様となら死んでもついていくといっていたペテロはあっさり逃げ出し、こともあろうに、イエス様を呪ってまで否定した。私は知らない、と。でも、イエス様はその十字架で彼の罪を赦した。彼と出会い、悔い改めに導かれた。裁くためではなく、赦すために。神様は、まず御子イエス様を十字架に架けるという愛を私たちの内にあらわされ、私たちが生きることを何より願ったのです。
十字架の後の復活の時、神様が墓をあなたのために開かれた。あなたが死の内にから、悲しみの内から出れるよう、身代わりにすべてを背負われたイエス様、そのイエス様と一緒に私たちを引き上げ、神様の御もとに導かれた。神様と私たちの間にある隔てはこの十字架と復活によってなくなったのです。
神様はあなたが悔い改め、この新しい命に歩むことを何より願っている。あなたを新しく生まれ変わらせてくださり、新しく神様の年代記、愛、御心によって導く歴史をあなたの内に、刻みたい、と御子イエス様のいのちをあなたに与えたのです。朽ち果てる事のない神様の御心、命にあって私たちは今日、生かされている。神様はその御手をユダにさえ開かれていた。でもそれを受け取るかどうかはあなたの決断。今日、あなたはこの分水嶺、生と死の分け目、十字架と復活の前にどう応答するだろうか。