「そのとき、アラムの王ハザエルが上って来てガテを攻め、これを取った。それから、ハザエルはエルサレムを目ざして攻め上った。それでユダの王ヨアシュは、自分の先祖であるユダの王ヨシャパテ、ヨラム、アハズヤが聖別してささげたすべての物、および自分自身が聖別してささげた物、主の宮と王宮との宝物倉にあるすべての金を取って、アラムの王ハザエルに送ったので、ハザエルはエルサレムから去って行った。ヨアシュのその他の業績、彼の行なったすべての事、それはユダの王たちの年代記の書にしるされているではないか。ヨアシュの家来たちは立ち上がって謀反を起こし、シラに下って行くヨアシュをミロの家で打ち殺した。彼の家来シムアテの子ヨザバデとショメルの子エホザバデが彼を打った。それで彼は死んだ。人々は彼をダビデの町に先祖たちといっしょに葬った。彼の子アマツヤが代わって王となった。」
Ⅱ列王記12章1-16節
危機迫る時、私たちはどうするだろう?神様は、私たちの王となり、守ってくださる。しかしそれを信じなければ私たちは大切な何かを失っていく。神様はあなたの命を救うために御子イエス様のいのちさえ惜しまず与える。今日、私たち自身も惜しまず神様に自身をゆだね、奉げよう。
さて、↑は紀元前南ユダ王国をヨアシュ王が治めていたころの話。彼が王になるその経緯は本当に奇跡的なものだった。夫である王が死ぬと、その妻アタルヤという人は、自分たちの子供が本当は王になるところ、その子供たちを虐殺し、自らが王となり、南北の王国を我が手中に収め、支配しよう、ともくろみます。
もともと、アタルヤの母、イゼベルも、自分の気に食わないものを簡単に殺し、気に食わないものを宗教行為、豊穣のためと称して、淫行の強要や子供を火にくべるなど、とんでもないことを行ってきた。そのイゼベルがついに討たれ、ようやく解放、と思っていたら今度はこのアタルヤの支配。
しかし神様は一人の女性に、ヨアシュを愛する心を、悪に立ち向かう心を与えた、神様を恐れ、神様の御心を求めた彼女は、見つかればアタルヤに殺される、と分かっていても、神様を信じ、神様のもとに駆け込んだ、生れたばかりの赤ちゃん、ヨアシュを抱えて。彼女は自分のいのちをかけてでも、神様を求めた。神様の御心を。そうして守られて、7歳になったとき、アタルヤが打たれ、王になった、神様の奇跡、彼女の信仰が交わり起こった大いなる奇跡によって、今、ヨアシュは生かされているのでした。
そういう意味で、私たちはこの神様にあって生かされている。私たちのいのちに対して神様はそれほどに真剣なのです。ヨアシュのいのちはもう、まさに神様の奇跡そのもの。ところが、彼はこれを軽視してしまった。昨日の投稿で彼は神殿を清く保とうとはしていたけど、ここだけは譲れない、神様に信頼できない部分がある、と高きところを神様に譲らなかった、と分かち合いましたが、それが↑の彼の行動に現れています。
彼はこれまでイスラエルを苦しめてきていたアラムの王、ハザエルが今攻め上ってきて、南ユダの首都、エルサレムに迫っていました。その恐怖はいかんばかりか。そこで、ヨアシュは取引をした。「自分の先祖であるユダの王ヨシャパテ、ヨラム、アハズヤが聖別してささげたすべての物、および自分自身が聖別してささげた物、主の宮と王宮との宝物倉にあるすべての金を取って、アラムの王ハザエルに送」ることで、退散してもらった。
でも、この戦略は一般で考えてもダメなんです。だってそうでしょう?そんなことをすれば、また金銭を求めてくるに決まってるじゃないですか。ヨアシュ王は、自分が今書いたような素晴らしい出生、神様の守り、奇跡によって生かされてきたこと、そして、この神様が与えてくださっていたもの、神様にお返ししたもの、宝物庫の金、全部を差し出してしまったのです。
自分たちは神様のいのちにあって生かされている、こうして今彼自身をも輝かせてくださっている、にもかかわらず、今ハザエルという凶悪な敵を目の前にして、恐れおののき、こんなの、神様を信じてたって何にもならない、と、神様に差し出したものまで全部、渡した。これは、神様の持つべきものではなく、ハザエルさん、あなたが持つべきだって。
結果論として、彼らが退散してくれたからよかったじゃないですか、と思われますか?しかし、神様との関係を犠牲にしてまで、神様を否定してまで得た平安は本当に平安ですか?またいつか襲い掛かってくるかも、という恐怖にさいなまされるのは、火を見るよりも明らかです。神様の文字、神様の御心が刻まれない私たちの歴史、人生、↑でいうなら年代記の書など、何の価値もありません。神様を犠牲にして、一時的な勝利のように見えても、最後、あなたの魂がサタンに、世に奪われたら何の意味があるだろう?結局彼は謀反を起こされ、殺されてしまう。
神様は、サタンの計画、イスラエルの滅亡から救い主誕生をもくろむサタンの計画、これを実行するイゼベル・アタルヤからヨアシュをせっかく守ってくださった。彼の魂を守り、保護し、神様のいのち、御心を彼の歴史、人生、魂に刻むはずが、その魂が奪われては神様がどれだけ悲しむだろう?
神様は、私たちの人生に神様の歴史=His Storyを、御心を、愛を、御力を刻みたい。神様がいると自分らしさが失われる?じゃあ自分らしさってなんですか?本来神様があなたに願っておられる最高の計画の内にいきること、それこそが自分らしさ。オリジナルです。神様があなたというたった一人の人に刻まれる愛によって生きる姿、それこそ最高の、あなたらしい姿なのです。私たちから神様を引き算したら、あなたの魂を、あなた自身を誰が守り、また建てあげるのですか?
私たちの周りには今の時代、特に多くの問題が襲い掛かってきます。今こそ神様との関係が問われるとき。でも、こんな時代だからしょうがない、とあきらめてはいけない、あなたの魂を、心を、不安に、サタンに支配されてはいけない。それを差し出してはいけない。神様の御心があらわされるべき場所、時間、思い、これらをあきらめて不安に、サタンに差し出してはいけない。
むしろ、だからこそ、私たちは私たちの魂を、倉を、神様の御心、命、御力であふれさせてくださるよう祈ろうではありませんか。神様は、あなたの魂を取り戻すため、御子イエス様のいのちさえ、惜しまず奉げ、あなたの身代わりに十字架で死なれた。その命をもってあなたを取り戻されたのです。私たちが神様から離れ、世に、サタンに、自分の魂を差し出した、それを取り戻すために。死があなたをとらえることがないよう。このイエス様のいのちにあってあなたは神様の手に取り戻された。
あなたのために、あなたの倉をその命で満たすために、神様がどれだけの代価を支払われたのか、ご存知ですか?このイエス様にあって取り戻されたあなたへの神様の思い、御心を、愛を、軽んじてはいけない。このイエス様にあって結ばれた関係を、何があっても、私たちは守り抜かなければいけない。いや、神様が守ってくださるからこそ、私たち自身も神様の前に私たちの大切なもの、心、魂を、すべてをゆだねようではありませんか。ハザエルだろうが、サタンだろうが、コロナだろうが、どんな諸問題が来ようとも、あなたを神様が守られ、神様の御心があなたを通して現される。
私たちは今日、命懸けで、この神様との関係を持ち続けよう。神様がなされる計画、御心に大いに期待しよう。それはまだ見えない未来かもしれない。しかしあなたの未来を御子イエス様のいのちにあって神様は取り戻してくださったのだから。あなたの内に刻まれる神様の歴史、計画に、愛に今日、期待しよう。大いに期待しよう。神様の計画されている思いをサタンに奪われてはいけない。神様の御国が、ご統治がなることをひたすらに祈り続けようではありませんか。この暗い時代にあっても神様の栄光が光り輝くように。