「ヨアシュはエフーの第七年に王となり、エルサレムで四十年間、王であった。彼の母の名はツィブヤといい、ベエル・シェバの出であった。ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えた間はいつも、主の目にかなうことを行なった。ただし、高き所は取り除かなかった。民はなおも、その高き所でいけにえをささげたり、香をたいたりしていた。ヨアシュは祭司たちに言った。『主の宮にささげられる聖別されたすべての金、すなわち、各人に割り当てを課せられた金や、自発的に主の宮にささげられるすべての金は、祭司たちが、めいめい自分の担当する者から受け取り、宮のどこかが破損していれば、その破損の修理にそれを当てなければならない。』しかし、ヨアシュ王の第二十三年になっても、祭司たちは宮の破損を修理しなかった。それでヨアシュ王は、祭司エホヤダと、祭司たちを呼んで彼らに言った。『なぜ、宮の破損を修理しないのか。もう、あなたがたは、自分の担当する者たちから金を受け取ってはならない。宮の破損に、それを当てなければならないから。』祭司たちは、民から金を受け取らないことと、宮の破損の修理の責任を持たないこととに同意した。…こうして、勘定された金は、主の宮で工事をしている監督者たちの手に渡された。彼らはそれを主の宮で働く木工や建築師たち、石工や石切り工たちに支払い、また、主の宮の破損修理のための木材や切り石を買うために支払った。つまり、宮の修理のための出費全部のために支払った。ただし、主の宮に納められる金で、主の宮のために銀の皿、心切りばさみ、鉢、ラッパなど、すべての金の器、銀の器を作ることはなかった。ただ、これを工事する者に渡し、これを主の宮の修理に当てた。また、工事する者に支払うように金を渡した人々と、残高を勘定することもしなかった。彼らが忠実に働いていたからである。罪過のためのいけにえの金と、罪のためのいけにえの金とは、主の宮に納められず、祭司たちのものとなった。」
Ⅱ列王記12章1-16節
神様と私たちの関係は穴あきであってはいけない。神様は私たちの内に命を溢れさせたいと思っても、私たちが別にいいわ、としている時には神様の御業は現されない。私たちはいつでも神様につながり、養われ歩もう。これを逃してはいけない。
さて、↑は紀元前イスラエル、南ユダの話。時の王はヨアシュ。そのいきさつは昨日分かち合いましたが、彼がまだ赤ちゃんだったころ、悪の象徴とも言わんばかりのイゼベル(気に食わないものを宗教行為の犠牲にしたり、豊穣と称して淫行教養、子供を火にくべる、自分の欲しいものは国民の命を奪ってでも得るなどを行っていた)、その娘のアタルヤがクーデターを起こし、王が死んだことをいいコトに、王の子供を全員虐殺、自分が王となることを企てたのでした。しかし、一人の女性が神様を恐れ、神様の御心の、祝福のない国は死んだも同然だ、と↑の一番下の子、ヨアシュを助け、6年かくまった。ばれれば自分が殺されるとわかっていても。
そうして7年目にアタルヤはついに討たれ、ヨアシュは7歳で王になった。これは一人の女性の勇気ある決断、また祭司(わかりやすく言うと、神様と民をつなぐ役割の人)エホヤダの信仰の決断によって守られた、まさに奇跡的に生かされたいのちだった。いや、その中でも神様が彼らをも守ってその計画を成し遂げた神様の御力によって、恵みによって今彼は生かされている、神様に与えられた最高のいのちだったのでした。
ヨアシュは↑にあるように、良き助言者であり、祭司であるエホヤダの話に、助言に良く耳を傾け、生きていました。その王政を、まあ子供だったからというのもあるけど、しっかりと執り行っていました。たった7歳ですよ?周りの信用がなければ下手をしたらまたクーデターでも起こされてもおかしくない、しかし、彼の内に、神様に信頼し、その教え、神様の建てあげて下さる一つ一つの御心、御力があらわされている時、もはや彼に対し、こんなものはだめだ!という声を上げるものは出なかった。
信じられない話ですよね。だって、たった7歳ですよ?それはもちろん、祭司エホヤダがいた、というのもあるでしょう。でもね、私たちがどんなに小さなもの(年齢的な話だけではなく能力とか、社会的地位とか)であっても、神様が私たちの内にその御心を、愛を現されるなら、それに聴き従い信頼するなら、その弱さの内に神様は働かれて、驚くべきことが起こる、もはや周りは神様のなさる業に文句など言えないほどのことがなされる。
私たちを形作り、生かすのは神様です。だからこそ、私たちはこの神様との関係を本当に大事にしなければいけないんです。今コロナ問題があるから、清潔を保つ大切さ、よくわかるでしょう?自分たちの家が菌で蔓延してないか、今慎重になっているじゃないですか。汚れていたら、きれいにするでしょう?私たちの内側は、でも神様が清めてくださるんです。不安や恐れ、疑い、苦しみ…自分たちの努力できれいにするんじゃないんです。神様があなたの内に語られ、励まされ、癒され、答え、そうしてきれいにされていく。
だからこそ、私たちはせっかく神様から与えられているこの命を大切にしなければいけない、神様との関係をないがしろにしてはいけない。↑のヨアシュの姿勢、よく読むときになりませんか?「ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えた『間は』いつも、主の目にかなうことを行なった」。そう、エホヤダがいた間は彼を立てていた、ともとれる。実際彼が死ぬと、ヨアシュは悪政に走っていきますし。また、自分の大切にしている価値観「高きところ」は取り除かなかった。どうして?これは私のプライド、これは神様に触れられたくない、と。
それはそんなところあるでしょう、でも、神様に対して、ここは譲れないというところを持つと、そこに神様は働けれないし、完全なる神様の御力は現れない。一つは、たぶんこれは神様には頼れないから、という思いで高きところを残していたのかもしれない。でも、神様は私たちのその疑う領域も、聖める、造り替え、きれいにしてくださるのです。
ある時だけ神様に任せるけど、ある時は任せない、それでは、↑の神殿工事を適当にやっている人たちと変わらない。神様の御心を彼らは期待していなかったから適当だった。でも一生懸命、期待している人の内には神さまの恵みは注がれていったのです。努力?違う。神様を求めるその思い、小さいかもしれない、でもその小さくてもその思いに、神様は答えてくださるのです。喉元過ぎれば熱さを忘れる、じゃだめなんです。どんな時でも神様に期待しましょうよ。
だって、神様はあなたとの関係を、罪によって壊れ、穴だらけ、汚れてしまったわ足した地を見捨てるどころか、御子イエス様を同じ人間として遣わされてまであなたに愛を現された。神であられるのに人間になってまで。お腹もすくし、疲れる、血も流れる、痛みも涙もある、同じ人間として同じ重荷を背負ってくださった。
それだけじゃない。あなたの内にある悲しみ、痛み、病、また何より神様から離れ失ってしまった神様との関係、真のいのちを回復させるべく、死を命に変えるべく、御子イエス様に私たちの罪を身代りに背負わせてまで、身代わりに罰して死なせてまで、あなたを愛し、あなたと和解し回復することを願われた、実行されたんですよ?ヨアシュどころじゃない、その注がれた愛は。イエス様のいのちという最高の奇跡にあって私たちは生かされているのです。
今や復活のイエス様があなたの内に、あなたがイエス様を救い主として迎えるなら住まわれ、あなたの内にその栄光を、御心を現してくださる。何を疑う必要があるだろう?もう疑いや悲しみ、また罪によってけがしてはいけない。日々イエス様のいのち、み言葉に、御心に癒され養われながら歩もう。神様があなたを輝かせる。疑いや、自分から神様をないがしろにして、神様の最高のご計画、御業を逃してはいけない。神様がなさろうとしている一つ一つの愛を受け取り、生かされ、歩もう。
