―たとえ天地が揺り動かされようとも― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「それから、イエスは彼らに言われた。『民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現われます。…そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。いなかにいる者たちは、都に入ってはいけません。…そして、日と月と星には、前兆が現われ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです。』それからイエスは、人々にたとえを話された。『いちじくの木や、すべての木を見なさい。木の芽が出ると、それを見て夏の近いことがわかります。そのように、これらのことが起こるのを見たら、神の国は近いと知りなさい。まことに、あなたがたに告げます。すべてのことが起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。その日は、全地の表に住むすべての人に臨むからです。しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。』」

ルカによる福音書21章10-36節

 

神様は、私たちに祈ることを赦された。私たちのことを神様は覚えておられる。神様はこんな時になぜ何もしないのか?と私たちは疑うことはあるだろう。でも、その前に私たちあなたを覚えている神様を覚えているか、祈っているか?離れていないか?私たちは救い、イエス様の御名によって神様に祈り求めよう。

 

さて、↑は神の御子たるイエス様が、十字架にかかられる前、弟子たちに、また人々に語られた「終わりの時の預言」です。初めに言っておきますが、今のこの時代が全く終わりの時と重なっている、かどうかはわからない。まだこれは序章に過ぎないような、本震前の余震のようなもののような警告か、はっきりはここに宣言しません。終わりの時についてイエス様は盗人のように突然やってくる、でも予兆はあるよ、と言っているから、はっきりしない。ただ、イエス様のおっしゃることと同様のことは起こっているな、と思う。

 

イエス様は、なぜこんな厳しい預言を語られるのだろう?愛の方でしょう?もっと甘い甘言を語ればいいのに、と思いたくなる時もあるかもしれませんが、私はでもここに愛を感じる。らかじめ、私たちがその苦難艱難の時代にあって誰に救いがあるのか、どこに救いがあるのか、それを示されたのだから。裏を返せば、そのような苦難困難の時代にあってもまだ、神様はその御手を伸ばし、私たちを救おうと願っていることをここに確信しないだろうか?

 

ということで、イエス様の↑の言葉に注目しましょう。イエス様はこの世のサタンの支配、また罪を完全に終わらせるべく、裁きの時がやがて来る、と語られる。その象徴として様々な苦難が訪れる、と。この個所以外でも、実は様々な疫病の問題、戦争の話、自身の話など様々あげられています。の終わりの時の預言にかかわらず、私たちには、コロナの問題しかり、様々な問題がある。↑の個所の後、ローマによる迫害によってユダヤは一度崩壊しますし。

 

ただ、神様が最初から滅ぼすことだけを考えるならこんなことはあらかじめ語ることはない。でも、神様は、その中にあって希望があること、救いがある、そのことをまさにあらかじめ語る。神様はあなたを、様々な苦難困難、↑のような激しい苦難の時代にあっても、神様が隠れ場、居場所となってくれる、というのです。他の個所では、助け主たる聖霊様が私たちの内に働き、平安をその中にあっても受けられるよう導かれる、働かれる、とも約束されています。

 

そう、どんなに天地が揺るがされようとも神様の守り、導きの前に私たちは希望を失うことはないというか、神様はそれらの万象に対して、勝利させてくださるのです。最後は再臨、イエス様の治める新しい天地がやってくる、と約束されているのです。

 

イエス様はこんな怖いことがある、だからさっさと信じなさい、と脅迫するのではなく「山に登りなさい」とおっしゃった。実はイスラエルがローマに包囲された時、このイエス様の御ことばを覚えていた人たちは、エルサレムを離れ、山にのがれ、結果、その人たちは生き残り、守られました。終わりの時の前にだって、神様は私たちの守りとなってくださるのです。私たちがこの神様に立ち返る時、神などいらない、と自分が王・神である都から離れ、助けなる神様の山に行くなら、私たちは救われる。

 

こんな時代に神など信じて何になる?じゃない。まず私たちはこの神様に祈るのです。先に語られたのはどうして?その前に救いの道を用意し、なおあなたを守りたい、救いたい、という神様のご意思ではないか?神様の意思は、あなたの内に注がれ、神様はあなたを守りたいと願っている。やがて訪れる本物の終わりの時に起こる現象から、実際私たちはその苦難の時代から移され、神様の御もとに連れていかれ、守られる。サタンや罪とは全く別の道、命を得るのです。

 

イエス様はおっしゃられる。「人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです」様々な恐ろしいことは確かに今起こっている。でも、神様はあなたを迎えに来ようとされているし、今、私たちの居場所として山を、イエス様を用意された。イエス様があなたの内に住まわれ、あなたを守りながら、その世に、困難にあっても御心をあなたを通して現してくださる。

 

これを希望的観測と思うだろうか?しかし神様の愛は現実です。「すべてのことが起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません」とあるように、どんなに時代が、状況が変わろうとも、天地が滅びるようなことがあろうとも、神様の御心はその中にあって私たちを立ち上がらせてくださる。そして永遠の御国に私たちを招いてくださるのです。

 

イエス様は、これらを言いっぱなしで去っていったのではない。私たちがさらに、この暗闇から救い出されるため、私たちの罪の代価をこの後、十字架上で支払われます。命を差し出し、十字架上で死なれたのです。命を懸けてでも、あなたを嘉から、死から、苦難困難のこの時代から救い出すため、受難を受けられた。あなたが受ける分すべての刑罰をその身に負われたのです。あなたがイエス様の前に悔い改めるなら、あなたはこの赦しを受け、復活のイエス様と同じように、私たちも新しくされ、神様の子として、神様のもとに永遠に住まう。いや、終わりの時の前にあってもその前味を味わわせていただける。

 

イエス様は↑の最後に、「油断せずにいつも祈っていなさい」とおっしゃられた。ということはイエス様はその祈りを聞かれ、答えてくださるということ。神様の救いは夢物語でも希望的観測でも、机上の空論でもない、イエス様のいのちにあって保証された現実です。私たちは命を懸けてあなたへの愛を誓われたイエス様に立ち返り、この方のいのちをいただこう。この方にあって今日、生きようではありませんか。