―金の斧?浮かび「上がらせて下さる」方― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「預言者のともがらがエリシャに、『ご覧のとおり、私たちがあなたといっしょに住んでいるこの場所は狭くなりましたので、ヨルダン川に行きましょう。そこからめいめい一本ずつ材木を切り出して、そこに、私たちの住む所を作りましょう』と言うと、エリシャは、『行きなさい』と言った。すると、そのひとりが、『あなたもどうか、思い切ってしもべたちといっしょに行ってください』と言ったので、エリシャは、『では、私も行こう』と言って、彼らといっしょに出かけた。彼らは、ヨルダン川に着くと、木を切り倒した。ひとりが材木を倒しているとき、斧の頭を水の中に落としてしまった。彼は叫んで言った。『ああ、わが主。あれは借り物です。』神の人は言った。『どこに落としたのか。』彼がその場所を示すと、エリシャは一本の枝を切って、そこに投げ込み、斧の頭を浮かばせた。彼が、『それを拾い上げなさい』と言ったので、その人は手を伸ばして、それを取り上げた。」

Ⅱ列王記6章1-7節

 

私たちには大きな問題、小さな問題、様々なものがある。でも、神様があなたの地境を広げてくださる。どんなことだって神様に頼って良い。頼ることが不信仰、なんじゃない。神様の御心によってもっと神様の御国を広げていただこう。恐れや不安を締め出し、神様の喜びが溢れるために。

 

さて、↑は紀元前北イスラエルの話。アハブ王朝の悪政によって国は傷つき疲れ果てていた。今はアハブの息子ヨラムが治めていますが、彼もアハブの子。アハブを操っていたイゼベルの恐怖も残っている。そうイゼベルの持ち込んだ宗教によってアハブはたぶらかされ、豊穣と称して淫行を強要し、子供を火にくべ、気に入らない者たちを殺し一層…そんな恐怖にさらされていた。アハブが死んでもその傷は深い。しかも、アラム、またモアブという国に攻められていた。

 

そんな中エリシャという預言者を「神様が」遣わされた。そう、彼を通して神様は語り、またその御業を現される。そういう意味では↑の奇跡も含めて、全ては神様の思い、御心が込められている。↑は本当に見かけよくわからない奇跡、だから何?と思う内容ですがしかし、ここにこそ意味がある。奇跡は奇跡で終わらない。私たちは奇跡にではなく、この神様の御心を通して神様に出会い、神様と生きる、命を得る、これこそが大事なのです。

 

話は↑の不思議な奇跡に進めるとして、預言者たちも神様の働きのために息を吹き返してきた。イゼベルに、悪に負けてはいけない、と。だからその仲間たちも増え、戻ってきて、エリシャと共に住むにはもう手狭になってしまった。そこで引越しをすることになりました。

 

ただ、彼等はエリシャがある意味で支えだった。神様、というよりも↑を見ているとエリシャという存在にカリスマ性を感じたのか、彼を頼り、彼に一緒に来てください、と誘ったように感じる。その彼らの思いにいいよ、と答えたエリシャもさすが、といったところで。でも、エリシャは神様から遣わされた人であり、神様はエリシャに一緒に行くように伝えている。同じ預言者なのになんて不信仰な、と見捨てるのではなく、むしろ誰であっても、神様に頼ってほしい、その思いが見えてくるのではないでしょうか。

 

↑の奇跡は本当にその意味を読み取るのは難しいんですけど、でも、前この個所を分かち合った時も書きましたが、私たちは神様を難しく考えすぎている。あれは頼って良い、これは頼るのは不信仰だ、そんなことはないんです。借りていた斧が水に沈んで(おそらくよっぽど深かったのでしょう。まあ水圧の問題で持ち上がらない、ということでしょうけど)、持ち上げられない。どうしよう…いいんです、頼って。

 

神様に頼ることにおいて、大きい小さいはないのです。こんなことを神様に頼るなんて不信仰、失礼かな?なんて考える必要はない。どうしよう、困った…そんなことだっていいんです。神様に相談していいんです。自分で考えて、それこそ水圧によってあなたの心が押しつぶされて頭を持ち上げられない、そんなような状況になるより神様に頼る、そのことを神様は喜んでくださる。

 

神様は、預言者仲間たちにあなたがたは神様に仕える者なんだから自力で頑張れ、とは言わず、エリシャと一緒に神様の心も彼らと一緒に行かれた。おとといの夜の投稿でも書きましたが、神様はそのお心があなたと共に行かれるのです。監視するためじゃないですよ?あなたの地境を神様の喜びによって広げるためです。神様の愛が、御心が、御力が、あなたの内側にあふれ、広げるため。そうして神様の栄光があらわされ、多くの人が神様のもとに立ち返ること、それこそ神様の願いなのです。

 

この話が金の斧の話の元、という説があるのですがそれはまあどっちでもいいんですけど、一つ忘れてはいけないのは、誰がその斧の頭を上げてくださるのか、上げてどうされるのか?です。その話では女神でしたっけ?正直者には本物と一緒に金の斧を上げた、という話でしたか?神様は、私たちが沈んだままでいることを望まれないし、そのあなたの頭を持ち上げ、神様の古い斧を新しい斧に、あなたに造り替えてくださる。

 

こんな奇跡をしてください、あれしてください、これしてください、交私たちは思いたくなる。でも、神様自身にゆだね、頼る、その時、「神様の」方法があなたの内に起こる。神様の何かが起こるのです。奇跡が起こる希望的観測に頼るのではなく、神様自身を求める、その時、私たちはこの世では測れない神様の素晴らしさを目撃し、体験するのです。こんな暗い世の中にあって、あれをしてくれなければ神ではない、とか言っている場合じゃない。頭を上げ、神様に祈る、神様、私と一緒にいて、あなたの御心を現してください、と祈る。これこそ大事ではないですか。

 

預言者のともがらたちはエリシャと一緒に新しい土地に引っ越しました。手狭になったから。でも、私たちは神様の恵みでいっぱいに広げられた新しい家、ここに私たちは引っ越す、住まおうではありませんか。自分たちの思い、痛み悲しみが支配する古い家、斧から解放され、神様の治め、神様が養い、神様があなたを導く。私の計画に満ちた家ではなく、神様の御心が満ちた家に。そこでは沈んだ斧が持ち上がる、とかそういう不思議だけではなく、神様ご自身の水、池からその素晴らしいご計画を私たちはその手に握る日が必ず来るから。いや日々日々、当たり前と思っている中にあって神様の御心をあなたの内にあらわされる。

 

エリシャは一本の枝を切って、そこに投げ込み、斧の頭を浮かばせたわけですが、神様はあなたを引き上げるため、罪の池に沈むあなたを引き上げるため、御子イエス様を身代りに沈めた、その命を投げ出してくださり、代わりにあなたのいのちを、死から引き上げてくださった。今あなたに与えられている、浮かび上がった斧はイエス様のいのちにあって新しくされたあなたなのです。エリシャを通して神様はこれを受け取りなさい、といった。この斧を持って家を建てるように。イエス様のいのちにあって生きよ、と。神様が一緒に建てあげ、その地境を広げて神様の御心が広がっていく、この本当のいのちの家の内に生きよ、と。

 

今日、私たちは古い家から新しい神様の家に引越ししよう。あなたがもしこのイエス様のいのち・赦しをいただくなら、もうあなたは神様の子としてこの家に招かれている。イエス様のいのちにあって与えられたこの大いなるいのちの内を喜び歩もうではありませんか。

 

また、この与えられた斧、神さまの愛、命をもって世に出ていこう。様々な問題があるかもしれない。でも、神様に切り開けられない場所はない。神様が切り開くのはさばくためではなく、そこに神様の栄光があらわされるため。そこに命が広がっていく。あなた一人ではない、神様が一緒。だから神様の御心がなるよう祈ろう。