「そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。…『私は今、イスラエルのほか、世界のどこにも神はおられないことを知りました。それで、どうか今、あなたのしもべからの贈り物を受け取ってください。』神の人は言った。『私が仕えている主は生きておられる。私は決して受け取りません。』それでも、ナアマンは、受け取らせようとしきりに彼に勧めたが、彼は断わった。そこでナアマンは言った。『だめでしたら、どうか二頭の騾馬に載せるだけの土をしもべに与えてください。しもべはこれからはもう、ほかの神々に全焼のいけにえや、その他のいけにえをささげず、ただ主にのみささげますから。主が次のことをしもべにお許しくださいますように。私の主君がリモンの神殿に入って、そこで拝む場合、私の腕に寄りかかります。それで私もリモンの神殿で身をかがめます。私がリモンの神殿で身をかがめるとき、どうか、主がこのことをしもべにお許しくださいますように。』エリシャは彼に言った。『安心して行きなさい。』そこでナアマンは彼から離れて、かなりの道のりを進んで行った。そのとき、神の人エリシャに仕える若い者ゲハジはこう考えた。『なんとしたことか。私の主人は、あのアラム人ナアマンが持って来た物を受け取ろうとはしなかった。主は生きておられる。私は彼のあとを追いかけて行き、必ず何かをもらって来よう。』…ゲハジは言った。『変わったことはありませんが、私の主人は私にこう言ってよこしました。【たった今、エフライムの山地から、預言者のともがらのふたりの若い者が私のところにやって来ましたから、どうぞ、彼らに銀一タラントと、晴れ着二着をやってください。】』するとナアマンは、『どうぞ。思い切って二タラントを取ってください』…ゲハジは丘に着くと、それを彼らから受け取って家の中にしまい込み、ふたりの者を帰らせたので、彼らは去って行った。彼が家に入って主人の前に立つと、エリシャは彼に言った。『ゲハジ。あなたはどこへ行って来たのか。』彼は答えた。『しもべはどこへも行きませんでした。』エリシャは彼に言った。『あの人があなたを迎えに戦車から降りて来たとき、私の心もあなたといっしょに行っていたではないか。今は銀を受け、着物を受け、オリーブ畑やぶどう畑、羊や牛、男女の奴隷を受ける時だろうか。ナアマンのツァラアトは、いつまでもあなたとあなたの子孫とにまといつく。』…」
Ⅱ列王記5章14-27節
人の心は読めない、わからない、と言いますが本当にそう。心は目に見えないから。まあ、文書、メール、LINEなどでも感情が見えないから誤解が生まれやすいのも事実ですが。ただ、神様のお心は違う。神様のお心は目に見えなくとも、その愛を現され、実行に移される。たとえ今一人と思って神様のお心が共にあるなら私たちは恐れる必要はない。いのちがけの愛、お心があなたと共に今日もある。
さて、↑は昨日の夜の投稿の続き(ブログなら3つ↓の投稿)になります。紀元前北イスラエル、アハブ王朝でめちゃくちゃになった北イスラエル、その上にアラムという強国が今彼らと戦っていた。そして、先の戦いで敗北、捕虜としてもどうやらアラムに捕らえられていた模様。
神様はなんだ、見捨てていたんじゃないか…そう思いたくなる。おそらく国民もそうだっただろう。ところが神様は彼等を思っていなかったわけではなかった。彼ら自身も神様から離れていた。しかし神様は彼らの敵国、アラムの英雄と言われたナアマンをツァラアトという思い皮膚病で討たれていた。それだけではない、彼のもとに神様は一人の少女を通して神様の存在を知らせ、北イスラエルに招かれ、こともあろうに敵国の将軍を癒されたのです。そして彼は神様の前に悔い改めたのです。
それで↑はその続きになるわけですが、そもそも驚くべきはナアマン。彼はイスラエルを苦しめる存在。そんな敵であるはずのナアマンに神様が憐れみをかけられた。単純に戦力をそぐ、というだけなら神様は一発で討てる、ないし北イスラエルの誰かを通して彼を討つことだってできる。それにもかかわらず、彼の悲痛な思い、ツァラアトという悲しみに支配されていた、その彼の悲しみを知っていた神様は、ご自身の元、ご自身が遣わされたエリシャのもとに招かれたのでした。憐れみを受けた。
ナアマンにとっては、これこそが喜びだった。普通に考えたら、癒された!よし、国に帰り、また英雄として頑張るぞ、で終わらせていいところ、それはもはや彼の喜びではなかった。英雄という殻、鎧で彼は着飾ってたけど、そんなものはもはや不要だった。今神様から新しいからだ、命をいただいた。この神様に生かされていること、この神様の愛に彼は生きたかった。この神様なしの人生など考えられない。
私たちはこのナアマンの心、持っていますか?癒されるだけを求めて、神様ご自身を求めていない、などということはないだろうか?癒されたし、解決したし、もう神様いいわ、とお払い箱にしたり…これが私たちの悲しい弱さというか罪ですよね。
ナアマンはもう、感謝に耐えられなかった。彼は何とかこの感謝を現そうと、贈り物を送ろうとします。でもエリシャは、これは神様の無償の愛によってなされたことであって、自分が受け取るべき感謝などない、と断ります。ならば、とナアマンは「二頭の騾馬に載せるだけの土」を求めます。
彼はこれから自分の国に帰る。でも神様を受け入れたことによって稀有な目で見られるかもしれないし、王が崇拝する神殿に一緒に行かなければいけない。たくさんの戦いが、問題がこれからある、でもどうかいつでも神様を忘れないでいたい、いさせてほしい、と土を求めるのです。神様が私と共にいること、それを何より願った。自分の国に帰ったらもう関係ない、ではなく、ここから新しく聖められた命を歩み続けたい、と。
一方で、この様子を見ていたエリシャに仕えるゲハジという男は、せっかく贈り物をもらえるんだからもらおうよ、ご主人、なぜもらわないのですか?と反発。彼はエリシャを通して神様の恵みを日々味わっていたのに、彼は自分に目に見える結果、恵みという「物」を求めていた。神様ご自身がくださるものに満足しない。その姿がよくわかる。そしてナアマンをだまし、贈り物を得、エリシャに渡すどころか自分のものにし、あまつさえ、エリシャに自分のしたことを隠した。
しかし、エリシャの心が彼と共にあったように、神様の心はお金で買えるものではない、いつでも私たちと一緒にあるのです。そんなに恵みが欲しいなら、どうして神様に求めない?神様がくださるものが、神様がくださったいのちはそんなに価値がないのか?神様からそれでも離れ続けるゲハジに、結局罪の象徴・ツァラアトがまとわりつくこととなったのでした。
私たちは、同じように神様の憐みを受けたものです。神様は私たちが世の思い煩いや罪に縛り付けられた、このような私たちを憐れまれ、ここから解き放ち自由にするため、御子イエス様のもとに招かれました。あなたのいのちを救うため、お金では買えない、御子イエス様のいのちを差し出され、あなたの罪を身代りに背負われ死なれ、私たちを癒された。いや、復活と共に、信じるすべての人を洗い聖め、神様の子として新しいからだ、いのちを与えてくださるのです。
このイエス様のいのちにあって買い戻されたのがあなた。どんなにお金を積んでも買えない。でも、イエス様のいのちにあって、このプライスレスのいのちにあってあなたに神様の恵みが、御心が、御力が注がれる、覆われるのです。このイエス様のお心が、あなたがどこに行こうと、共に進まれる。復活のイエス様があなたの内に住まわれ。目に見えない、この世のおカネでは買えない神様の御心が、今日、あなたとともに進まれる。今日この神様の恵みに感謝し、このうちを歩もう。
