「その子が、大きくなって、ある日、刈り入れ人といっしょにいる父のところに出て行ったとき、父親に、『私の頭が、頭が』と言ったので、父親は若者に、『この子を母親のところに抱いて行ってくれ』と命じた。若者はその子を抱いて、母親のところに連れて行った。この子は昼まで母親のひざの上に休んでいたが、ついに死んだ。彼女は屋上に上がって行って、神の人の寝台にその子を寝かし、戸をしめて出て来た。彼女は夫に呼びかけて言った。『どうぞ、若者のひとりと、雌ろば一頭を私によこしてください。私は急いで、神の人のところに行って、すぐ戻って来ますから。』すると彼は、『どうして、きょう、あの人のところに行くのか。新月祭でもなく、安息日でもないのに』と言ったが、彼女は、『それでも、かまいません』と答えた。彼女は雌ろばに鞍を置き、若者に命じた。『手綱を引いて、進んで行きなさい。私が命じなければ、手綱をゆるめてはいけません。』…神の人は、遠くから彼女を見つけると、若い者ゲハジに言った。『ご覧。あのシュネムの女があそこに来ている。さあ、走って行き、彼女を迎え、【あなたは無事ですか。あなたのご主人は無事ですか。お子さんは無事ですか】と言いなさい。』それで彼女は答えた。『無事です。』…神の人は言った。『そのままにしておきなさい。彼女の心に悩みがあるのだから。主はそれを私に隠され、まだ、私に知らせておられないのだ。』彼女は言った。『私があなたさまに子どもを求めたでしょうか。この私にそんな気休めを言わないでくださいと申し上げたではありませんか。』…エリシャが家に着くと、なんと、その子は死んで、寝台の上に横たわっていた。エリシャは中に入り、戸をしめて、ふたりだけになって、主に祈った。それから、寝台の上に上がり、その子の上に身を伏せ、自分の口を子どもの口の上に、自分の目を子どもの目の上に、自分の両手を子どもの両手の上に重ねて、子どもの上に身をかがめると、子どものからだが暖かくなってきた。それから彼は降りて、部屋の中をあちら、こちらと歩き回り、また、寝台の上に上がり、子どもの上に身をかがめると、子どもは七回くしゃみをして目を開いた。…彼女は入って来て、彼の足もとにひれ伏し、地に伏しておじぎをした。そして、子どもを抱き上げて出て行った。」
Ⅱ列王記4章18-37節
神様の救いの準備は万端。でも、私たちは受け取る準備万端?私たち自身が神様を求めない限り、その用意された神様の大いなる御心はならない。信じたって無駄、今さら、などと考えずに、神様の御心を、神様を求めよう。
さて、↑は昨日の続きになります。時は紀元前。北イスラエルのアハブ王朝後、アハブの悪政によって残った心の傷、傷跡、周辺国からの攻撃などで、疲弊しきっている、そんな時代。しかし神様は彼らを見捨てず、エリシャという預言者を、エリヤの後に遣わされるのでした。エリヤを通して神様は様々な場所にその御心を現しながら希望を届けていかれた。
そんな彼を見かけていたある裕福な女性。神様という「存在」を「象徴的に」信じていた。いてくれる、知っているだけで十分、そんな感じだった。でも、ある日エリシャを見かけたとき、神様の存在は知っていてもその御心を求めていないことを知ってか、人間的には何の得にもならないのに彼を招き入れ、お世話をするのでした。神さまの愛が、御恵みが溢れることを願った。自分であきらめて神様との扉を閉ざしていた扉は開かれ、今、彼女のあきらめていた子供が与えられた。↑はその続き。
それからしばらくして子供もだいぶ大きくなったのですが、ある日ひどい頭痛に襲われ、ついに彼は亡くなったのでした。青天の霹靂。せっかく子供が与えられた、あきらめていた子供が…それなのに、どうして?こういうことは本当にだれしもにも襲いますね。これがどれだけつらいことか。
そんな中、これを知ったお母さんはでもあきらめせんでした。これは、神様から始まった子供との日々、ならばあきらめてはだめだ、とエリシャのもとに行きます。普通、死はあきらめざるを得ない。でも、彼女はあきらめなかった。神様に頼ることを。旦那さんは、こんな時にエリシャのところに行って何になる?いけにえを捧げれば何とかなるとでも?というような感じで奥さんに話しますが、奥さんはあきらめきれない、とその道を進むのでした。
一方エリシャ。エリシャは彼女が訪ねてくることを知っていた、遠くから彼女をいつも心配して、見ていた。そしてエリシャのもとに尋ねてくるお母さんに、元気ですか?と尋ねるよう若者に命じるも、彼女は子供についても元気です、としか答えなかった。神様はまだエリシャにこの状況を知らせていなかった。なぜ?と思う。
神様はもちろん準備万端です。でも、彼女自身が本当の思いを、祈りを、願いを、心の内を注ぎだし、より頼むのを待っていた。形だけ祈るとか、頼るしかないから来た、でもそこを超えて本心と本心で語り合う、本当の命ある関係に彼女自身が入ってくるのを待っていた。神様は私たちへの救いの準備万端。でも、私たち自身がこれを受け取りにいかなければならなかった。象徴的な関係を卒業して、心と心の通う、遠いのではなく近い関係に。神様自身がこの子供のことを通して彼女に招かれていたのです。
神様の心は私たちが神様が遠く感じる時にも近くにある。というよりもすぐそこにおられ、神様に頼り、心と心、血の通った関係を何より願っておられる。死は死で仕方ないことだ、と片付けなかった。どうせ人はいつか死ぬんだ、とか血も涙もないことを言わずに、神様はその痛みを何よりわが心として、エリシャを遣わしていくのでした。
彼は、死体に触れると祭儀ができない、汚れる、とかそんなことを考えずに、祈り、その子の亡骸にその体を重ね、その子の痛み、悲しみ、死を、我が事として重ねた。そうしてこの子のいのちは蘇ったのです。私たちは最近の日本もそうですけど、突然の辛い出来事の中にあっても、普段の中にあっても私たちにいつでもその恵みを注ぎたい、その世の中の思い煩い、痛み、そうしたものをご自身の物と交換したい、とあなたが訪ねてくること、あなたが心を注ぎだし、立ち返ってくるのを何より待っておられる。
その証として神様は私たちのためにイエス様のいのちを差し出した。私たちが神様の元から離れ、罪の中に歩む、その姿を心配した神様はご自身から近づいてこられた。あなたの痛みを悲しみ、あなたのもとに駆けつけてこられた。神であられるのにそれを棄てられないとは考えず、人となって生まれてきてその現実にまで来てくださった。遠い象徴的な存在でもない、心と心、血の通った生きた関係に戻るため。
我が子が苦しむ姿を見捨てられる親はいない。愛する我が子であるあなたを神様は見捨てられず、駆け付けられた。様々な痛みがあるけど、それ以上に神様の恵みを失い罪に、サタンの手にとらわれたあなたを救い出すためただ癒すだけにとどまらず、あなたの罪の代価を身代りに十字架で、その命をもって支払われたのです。
あなたの死を自らに移し替え。でも復活と共に、私たちも新しくしてくださったのです。癒される。死は命に代えられる。暗闇は神様の御心に、御光によって消え去るのです。御子イエス様のその命があなたの内に留まる。あなたの内に復活のイエス様は住まわれ、ご自身の愛を、御心を、御力を、あなたの内にあらわされるのです。
死は死で終わらない。人は死んで終わりではなく、イエス様のいのちをいただいた人は死にそのまま進まず、天の御国にまで招かれる。そこまで神様はあなたを導かれる。あなたは一人ではなく、今日、このイエス様の御心があなたを覆っている。間違ってもそのまま死に、裁きに向かわず、イエス様のいのちを、新しい命の内を歩ませていただこうではありませんか。心と心、血の通った、命の関係の内を。象徴で終わらせず、このイエス様にあって新しくされた新しい命の内、あきらめず、御心を祈り求め歩もうではありませんか。
