「アサの子ヨシャパテがユダの王となったのは、イスラエルの王アハブの第四年であった。ヨシャパテは三十五歳で王となり、エルサレムで二十五年間、王であった。その母の名はアズバといい、シルヒの娘であった。彼はその父アサのすべての道に歩み、その道からそれることなく、主の目にかなうことを行なった。しかし、高き所は取り除かなかった。民はなおも、その高き所でいけにえをささげたり、香をたいたりしていた。ヨシャパテはイスラエルの王と友好関係を保っていた。ヨシャパテのその他の業績、彼の立てた功績とその戦績、それはユダの王たちの年代記の書にしるされているではないか。彼は、父アサの時代にまだ残っていた神殿男娼をこの国から除き去った。そのころ、エドムには王がなく、守護が王であった。…ヨシャパテは彼の先祖たちとともに眠り、先祖たちとともに父ダビデの町に葬られた。その子ヨラムが代わって王となった。アハブの子アハズヤは、ユダの王ヨシャパテの第十七年にサマリヤでイスラエルの王となり、二年間、イスラエルの王であった。彼は主の目の前に悪を行ない、彼の父の道と彼の母の道、それに、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの道に歩んだ。すなわち、彼はバアルに仕え、それを拝み、彼の父が行なったと全く同じように行なって、イスラエルの神、主の怒りを引き起こした。」
Ⅰ列王記22章41-53節
私たちの人生には地図がない。でも、今のコロナ問題からもわかる通り、本当の意味で正しく導く方がいなければ、その道を示す方がいなければ私たちは本当の意味で命ある歩みはできないのです。私たちはこの真の主、神様に立ち返り、この道を歩もう。この道を敷かれ、導かれるのは神様なのだから。
さて、↑は紀元前の分裂したイスラエル王国の様子を現した記録。正確には、北イスラエル王国をアハブ王とイゼベル王妃が支配していた、そのアハブ王朝が崩壊した直後の話です。北イスラエルは、アハブの悪政のよって絶望の中にいました。自分の欲するものを国民が持っていれば殺して奪い、豊穣を願うと称して淫行を強要し、子供を火にくべ、そのような最悪な宗教を信じなければ殺す、同盟国の王さえ自分の身代わりにしようとする、もう最悪の状態にありました。
しかし、神様の憐みによってついにこのアハブ王は討たれ、北イスラエルは今、転換期を迎えていました。さあ、この最悪の事態は抜け出した、これからどう国は歩むだろうか?と。そんな選択が↑の南ユダの王ヨシャパテと、北イスラエルの王アハズヤに現れています。
まず、南ユダの王ヨシャパテ。彼は父アサもクシュ(現エチオピア)という当時の列強国の一つとの戦いに苦しめられていましたが、神様の助けによってこれに勝利し、また繁栄していました。小国南ユダ(日本の四国のサイズもない)、どうやっても普通に考えて勝てるはずがないんです。しかし「主よ。力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも、あなたにあっては変わりはありません。私たちの神、主よ。私たちを助けてください。私たちはあなたに拠り頼み、御名によってこの大軍に当たります。主よ。あなたは私たちの神です。人間にすぎない者に、あなたに並ぶようなことはできないようにしてください」という祈り、神様以外に救いはない、神様こそこの国を正しく支え導く神、と信じ、ゆだね、ついには勝利を治めるのでした。
ヨシャパテの父アサはこういつも言っていた。「さあ、これらの町々を建てようではないか。そして、その回りに城壁とやぐらと門とかんぬきを設けよう。この地はなおも私たちの前にある。私たちが私たちの神、主を求めたからである。私たちが求めたところ、神は、周囲の者から守って私たちに安息を下さった」。神様の上に街々を建てよう、神様に納めてもらおう、これが破られることがないようしっかりと、霊的な不安や問題を追い出し、二度と攻めてくることがないようかんぬきをかけよう、神様という最高の城壁を張ろう、と言っていた。
その確信の上に神様はしっかりと支え、導かれ、養われていた。本当の安息、繁栄というのは、安全というのは、この神様の上にある。確かにこの世のものは攻めてくる、今もコロナウィルスという目に見えない不安上がる。でも、だから神は何もしない、と離れるのか、それでもだからこそ、私は神様に頼り信頼します、と、一見目に見えては祈って何になる、と思える中でも祈る、この信仰によって彼らは勝利を得るのです。
アサの息子ヨシャパテは、これをずっとみながら神様に生きるべきだ、と決断していた。北イスラエルとの友好関係は彼ににアラムとの戦いで危険にさらされた。でも彼はそれでも兄弟国を気にかけつつ、もしかしたら彼らの悔い改めを願って同盟を結んだのかもしれない。彼はアハブに、神様に祈ろうよ、神様の声を聴こうよ、と導いたくらいでしたから。あなたをよいしょする声はいくらでもある、時に神様の言う言葉は厳しく聞こえるかもしれない、でも聞くべき声を聴こう、と。その彼を神様はとても喜ばれ、神様の繁栄が彼の上にあらわされた。
彼について他の聖書の書簡の中でこのように残されています。「富と誉れが豊かに与えられることによって、北イスラエルとの協調時代をもたらした」と。神様から多くの富と誉が豊かに与えられていた。そしてこれを分かち合う者であった、と。
私たちは神様のいのちの内に生かされる。この神様の御心に従い歩む中に、ただ自分さえよければいいと留まる、自分の内に持っているだけではなく世に分かち合う、たとえ苦難の中にあっても神様の御心を求め、従う中に神様の御業があらわされ、繁栄がなされるのです。神様に祈って何になる?は自分で何かを成し遂げようとするから。でも神様がそれをなされるのです。
アハブはそれに失敗した。アハブはこれまで見てきたように神様からそれでも多くの哀れみを示されていたにもかかわらず、そんなものはいらない、と拒否を続けた。自分の思う通りに神様がかなえないから。結果彼は神様のいのち、また富も誉も失った、アハズヤはそれを見ていたのにもかかわらず、なおその父の姿に従い歩み、彼は滅びの道を進んでいく。せっかくヨシャパテを通して友好関係が結ばれていた機会を逸してしまったのでした。
子は父の背中を見て育つ。父は子を養う(お母さんもですが)。私たちは本来の子父なる神様に養われ生かされ歩む。神様こそ、私たちの生きる道となられ養われる方。この方から離れて私たちは生きられない。束縛したいんじゃない、あなたをこの世の思い煩い、罪、サタンの手によって滅びゆくことを望まないのです。私たちが真似するのは、アサでもヨシャパテでも、アハブでもない、神様なんです。
アハブの窮地に駆けつけたヨシャパテのように神様はあなたと共に歩まれることを選ばれた。神様から離れ好き勝手に歩む私たちなど滅びればいい、などとは考えず、御子イエス様を人として生まれさせてくださり、私たちの歩むべき道としてくださった。いやイエス様自身があなたの内に住まわれ、導かれる、その道となられた。神様に通ず、神様の御心が命が溢れる道を歩めるように。
イエス様は私たちの罪ゆえに向かう滅びの道から救い出すべく、私たちの罪を身代りに背負われ十字架にかかられ死なれた。その命懸けの愛によって私たちは救い出された。イエス様の復活と共に、私たちは新しいいのちの道、死に向かう道ではなく、天に、神様の子として、神様に向かうその道に導かれたのです。
あなたは誰の道を今日歩むだろうか。様々な問題がある。だからこそ、神様に祈るか、それとも自分の道をそれでも進むか。神様はあなたに命を懸けて愛し、救いだし、導こうとその御子のいのちさえ差し出された。あなたの内側からイエス様に思い煩いも、痛みも、何よりも今日罪を全部追い出していただき、神様のいのちに満たされ歩もう。方向転換には痛みが伴うかもしれないけど、その痛みはイエス様が追われた。イエス様は世の終わりまで、死の影の谷間さえ、共に歩まれ、導かれ、御心を現され導かれる。から。
