―国家晩餐会への招待状― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「イエスといっしょに食卓に着いていた客のひとりはこれを聞いて、イエスに、『神の国で食事する人は、何と幸いなことでしょう』と言った。するとイエスはこう言われた。『ある人が盛大な宴会を催し、大ぜいの人を招いた。宴会の時刻になったのでしもべをやり、招いておいた人々に、【さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから】と言わせた。ところが、みな同じように断わり始めた。最初の人はこう言った。【畑を買ったので、どうしても見に出かけなければなりません。すみませんが、お断わりさせていただきます。】もうひとりはこう言った。【五くびきの牛を買ったので、それをためしに行くところです。すみませんが、お断わりさせていただきます。】また、別の人はこう言った。【結婚したので、行くことができません。】しもべは帰って、このことを主人に報告した。すると、おこった主人は、そのしもべに言った。【急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい者や、からだの不自由な者や、盲人や、足のなえた者たちをここに連れて来なさい。】しもべは言った。【ご主人さま。仰せのとおりにいたしました。でも、まだ席があります。】主人は言った。【街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は、ひとりもいないのです。】』」

ルカによる福音書14章15-24節

 

私たちは、誰しもが「天国」という神様の国・国家晩餐会に招かれている。でも、私たち自身がこれを受け取りゆかなければ、この素晴らしい場所に参列することはできない。神様はいつでもあなたが来るのを待っている。最高の食事、御心、愛をあなたにあらわそうと。言い訳を探すのは簡単。でもとりあえず神様のもとに行ってみよう。

 

さて、↑は神の御子たるイエス様が人となってお生まれになったころ。イエス様は良く食事の席を設け、多くの人を招いていたのですが、↑の時も食事を多くの人としています。他の個所などを見ると、イエス様の食卓には、罪人や国から売国奴と言われているような人、世の中から見捨てられているような人が多く招かれていた。他にもイエス様を慕い、イエス様のもとに留まり続けている人もそこにはいつもいた。

 

オープニングで、私たちは「天国」という国家晩餐会に私たちは招かれている、と書きましたが、これ、実は死んでから、だけではないんです。もちろんイエス様を救い主として信じ受け入れている人はだれしも天国に招かれます。でも、多くの人が「今イエス様と食事をしている」人を見て「神の国で食事する人は、何と幸いなことでしょう」とうらやましがるように、イエス様は死んでからだけではなく、今私たちのためにその食卓を私たちのために設けてくださるのです。

 

この食卓でイエス様は様々なことを教え、また癒され、励まされ、時には悔い改めに導いたり、と、衣食住「だけではなく」、私たちが生きるに必要は本当の食べ物、霊的な糧も、魂の糧も備えて下さる。そこに私たちはいつも招かれている。これ、何という幸いなことでしょうね。

 

というよりも、これを幸いと思うかどうか、それは大きな分かれ目。イエス様は「もうすっかり、用意ができましたから」とおっしゃる。つまり、ここに招かれている人に提供するものは全て用意されている。最近アレルギーに対応した食事などもちゃんと提供されるようになってきてますが、あなたにはあなたに対応した、必要なものをイエス様は用意してくださった上で、つまりあなたのことをよく存じ上げている方が、あなたに必要な全てを整えてあなたを招いている、あなたに留まるよう招いておられるのです。ご自身のもとに。

 

しかし、残念ながら↑に見るように、私たちは多くの理由を探して拒否する。↑なんてほんの一例でしょう。「うちは宗教が違うので」、でもそもそもじゃああなたの宗教の何を信じているの?と聞いても応えられなかったり。そもそも「神様を信じることは宗教をする」というわけではなく、現実に神様との関係に生きるというだけ、教えやどうのじゃないんです。現実なんです。

 

他にも、最近見ているアハブの話じゃないですが、神なんて言信じても信じなくても同じでしょ?とか、私に利益をもたらしてくれるか?とか。昨日は助けてくれたけど今日は何もしてくれないじゃないか、とか。胸に手を当てれば、↑に私は当てはまらない、といっても身に覚えが出てくる。私もです、正直に言いますが。そうしてさまよい歩き、世に踊らされる。

 

でも、イエス様は探しに来られた。「急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい者や、からだの不自由な者や、盲人や、足のなえた者たちをここに連れて来なさい」と、霊的に盲目になっている人、世にとらわれ不自由な、神様のいのちを失っているものまで。もうちょっと具体的に言うなら、当時見捨てられるような人たちさえ、探しに来られた。さらに「街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい」と、この恵みになんとか招こうと必死だった。

 

イエス様はなんと、裏切る弟子たち、十字架に架けたものたちまで、愛するため、彼らを裁くよりも、私たちが本来神様のこの食卓から、家族から追放、されなければいけないところを、身代わりにその罪を背負われ、十字架上で身代わりに罰せられた。私たちが見捨てられなければいけないのに、イエス様は最後まで私たちを見捨てず身代わりになられ、死なれた。しかし、3日目によみがえられ、その罰を終わらせてくださり、私たちと神様を和解させてくださったのです。

 

あなたにはこの命懸けの神の御子イエス様の愛、この命によって支払われた招待状が渡されているのです。その命を懸けてまで招かれた食卓。これに招かれる、この幸いを私たちはどれ絵だけ味わっているでしょうか?というよりも、一度行って、もう十分だわ、と離れ去っていないでしょうか?イエス様はいつでもご自身の内に留まることを願っている。いや、あなたの内に復活のイエス様が住まわれ、全ての備えられた食事をあなたに与え、養い導かれるのです。言い訳を探すのは簡単、でもまずイエス様のもとに行こう。そしてここに留まり続け、養われ、イエス様の御心を日々味わわせていただきながら歩もうではありませんか。