「アラムの王ベン・ハダデは彼の全軍勢を集めた。彼には三十二人の王と、馬と戦車とがあった。彼はサマリヤに上って来て、これを包囲して攻め、…使者たち(敵アラムの)は再び戻って来て言った。『ベン・ハダデはこう言われる。【私は先に、あなたに人を遣わし、あなたの銀と金、および、あなたの妻たちや子どもたちを私に与えよ、と言った。あすの今ごろ、私の家来たちを遣わす。彼らは、あなたの家とあなたの家来たちの家とを捜し、たとい、あなたが最も大事にしているものでも、彼らは手に入れて奪い取るだろう。】』…すると長老たちや民はみな、彼に言った。『聞かないでください。承諾しないでください。』そこで、彼はベン・ハダデの使者たちに言った。『王に言ってくれ。【初めに、あなたが、このしもべに言ってよこされたことはすべて、そのようにするが、このたびのことはできません。】』使者たちは帰って行って、このことを報告した。するとベン・ハダデは、彼のところに人をやって言わせた。『サマリヤのちりが私に従うすべての民の手を満たすほどでもあったら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。』そこでイスラエルの王は答えて言った。『彼にこう伝えてくれ。【武装しようとする者は、武装を解く者のように誇ってはならない。】』ベン・ハダデは、このことばを聞いたとき、王たちと仮小屋で酒を飲んでいたが、家来たちに、『配置につけ』と命じたので、彼らは、この町に向かう配置についた。ちょうどそのころ、ひとりの預言者がイスラエルの王アハブに近づいて言った。『主はこう仰せられる。【あなたはこのおびただしい大軍をみな見たか。見よ。わたしは、きょう、これをあなたの手に引き渡す。あなたは、わたしこそ主であることを知ろう。】』アハブが、『それはだれによってでしょうか』と尋ねると、その預言者は言った。『主はこう仰せられる。【諸国の首長に属する若い者たちによって。】』アハブが、『だれが戦いをしかけるのでしょうか』と尋ねると、『あなただ』と答えた。…彼らは真昼ごろ出陣した。そのとき、ベン・ハダデは味方の三十二人の王たちと仮小屋で酒を飲んで酔っていた。」
Ⅰ列王記20章1-16節
私たちは自分の内側の小ささを見て、周りの大きさを見て、恐れる。でも、私たちの内には神様の大きな大きな愛がそそれがれる、注ごうとされている神様がおられるということを忘れてはいけない。この神様の前に立ち果せるものなどない。神様を過小評価してはいけない。神様はあなたが思う以上に大きな方です。
さて、↑はずっと見てきている古代イスラエル、北イスラエル王国をアハブ王とイゼベル王妃が「支配」していたころの話。彼らは豊穣のためなら子供を火にくべ、淫行を強要し、自分が欲しいものならその人の命を殺して奪い取ろうとする、彼らのこの宗教を強要し、それに従わなければ命をつけねらう。もう最悪の国家だった。まあその大半は王妃イゼベルの方にあったのですが。それにアハブが影響を受けてしまっていた。
しかし、神様は預言者エリヤを遣わし、彼らを支配し躍らせているバアルが何もできないことを示しながら、この支配を打ち砕いた、そして、アハブ自身にも神様の哀れみの機会が示された。にもかかわらず、こんな神など私は認めない、とエリヤの命を付け狙う、そんな神様からしたらとんでもない存在のアハブ。追っ手をかけている。なんと、そんなアハブに神様が↑のような助けを送ったのです。
信じられない話ですよね。だって神様が憐れみを示し、さばきの手を一度止めて雨を降らせ、彼に悔い改めの機会、自覚はなくとも彼を支配するイゼベルの手から抜け出し、神様に立ち返りいのちを得る機会を拒否し、その神様が送ったエリヤを殺そうとしていたのに、ですよ?
今、アハブはエリヤ云々言っている場合ではなく、王として国を守らなければならない立場にあった。まあ結果としてエリヤもアハブの手から逃れることができる、神様はエリヤにもその御手を伸ばされ、絶望かにあっても守られていたわけですが。この国の周り、首都のサマリヤがアラムという大国に囲まれてしまったのです。
アハブの対応、恐れっぷりからもアラムの大国性がよくわかると思います。とんでもない要求ですよ。金銀、家族、子供、全部よこせって。お前たちの者は俺のもの、ジャイアンか!と突っ込みたくなるところですが。ちなみにジャイアンの「お前の物は俺のもの、俺の物は俺の物」ということばは、のび太が小さなとき、大事なものをなくしたとき、お前の物は俺のものだと思って探すから安心しろ、そういう意図があったそうです。
話は戻して、私たちの物というのは、いつかはなくなるし、いつ奪われるかわからない。人間関係だって、今までよかったのが急にダメになる、成功がやがて崩れ去る、いくらでもなる。しかし、神様が与えるものは決して奪い去ることはできません。アラムがどんなに強大であろうと、あなたの問題がどんなに大きくても。
神様はそのように私たちを惜しまれるのです。あなたのいのちが損なわれるのを、あなたがサタンやこの世の思い煩いに奪われていくこと、死に奪い去られることなど我慢できない。最初に書いたようなアハブにですよ、それでも神様はまだ惜しまれていたのです。
この時、アハブが敵に囲まれいよいよ攻めてこられるとき預言者はこう言った。「あなたはこのおびただしい大軍をみな見たか。見よ。わたしは、きょう、これをあなたの手に引き渡す。あなたは、わたしこそ主であることを知ろう」と。「わたしこそ主であることを知る」、それは神様の御業を見、また体験させていただける。でもそれ以上に、神様はそれでも憐れみ深い神様であり、神様が今あなたを惜しまれていること、あなたに命を得てほしい、そのように訴えている。ただ敵に勝利させるだけではない、あなたの内に神様のいのちを、憐れみをそれでも示したい、注ぎたい、それこそ神様の思い。サタンの手から、イゼベルの支配から断ち切りたかったのです。
でも最後は、預言者が戦いに出るのはあなただ、と伝えたように、私たちの決断なのです。でも私たちは一人ではない、神様の御心が、神様自身が一緒に立ち向かってくださる。だから私たちは勝利を勝ち取る、何ものもあなたから奪い去ることのできない神様のいのち、恵み、神様のあらゆる恵みを受けるのです。
私たちもまた、私たち自身神様のもとに立ち返らなければいけない。神様はあなたへ大いなる憐れみを示された。神様から離れ好き勝手に生きる私たちを見捨てることなどできなかった。アハブまで行かなくても、私たちはどれだけ神様を悲しませ、逆らいながら歩んできただろう。神様がどれだけ愛を注いでもすぐに、離れていく。神様から捨てられてもおかしくない。アハブのように私たちはこのようなものに支配されている自覚はないかもしれない。
でも神様はそれでも憐れみを示され、あなたを支配する霊的イゼベル、この世の思い煩い、何より罪、サタンと戦ってくださり、あなたを取り戻そうとされた。イエス様を人となって生まれさせてくださり、共に歩まれ、戦われた。でもそれで終わらず私たちの罪の代価を十字架で身代わりに背負われ死なれたのです。
しかし復活させられたことによって、これらはもはや打ち砕かれ、信じるすべての人は神様の子として受け入れられる。このイエス様のいのちにあって結ばれた、和解された関係、神様との親子関係において、もはや何物もあなたの命を奪うことはできない。神様は御子イエス様のいのちゆえにあなたをご自身の子とされた。我が事として心配され、今日もあなたの内にその御手を伸ばされ、あなたに憐れみを、恵みを、御心を現そうと、あなた自身が立ち上がり立ち返るのを今日も待っている。今日、私たちはこの朽ち果てることのないまことの命をいただこう。この命の内に今日もイエス様と共に歩もう。この愛は、あなたのためのものです。あなたにはあなたへの神様の御心、愛が今日用意されている。これを勝ち取りに立ち上がろう。