―顔と顔を合わせるために― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『…見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行なう者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。―万軍の主は仰せられる―しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行なう日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。―万軍の主は仰せられる―あなたがたは、わたしのしもべモーセの律法を記憶せよ。それは、ホレブで、イスラエル全体のために、わたしが彼に命じたおきてと定めである。見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。』」

マラキ書4章1-6節

 

クリスマス、恋人たちは顔と顔を合わせデートをする(接吻とかそういう事ではなく)。友と友は顔と顔を合わせパーティーをする。会社では忘年会…は最近形態が変わってきましたが。でも、ここにイエス様が不在では本当のクリスマスではなくなる。そこにイエス様がいるから、本当のクリスマスとなる。本当の喜びを得たいと思うなら、ぜひイエス様をお迎えしましょう。ここから始まります。

 

クリスマスシーズンという事で、イエス様の誕生を覚えつつ、イエス様がどんな方なのかを覚え、感謝するシーズン。今日、ふとテレビをつけていると、第九をとんでもない拡大解釈をして、本当の喜びをお笑いのレベルに下げてしまったのを見て唖然としてしまったのですが、クリスマスは、私たちに人間が喜びを与えるのではなく、「神様が」その喜びを届けに来られた。その喜びの約束をされた最後の預言、それが↑。

 

この当時はバビロンから解放され、ペルシャ帝国、ギリシャ、ローマ帝国、と激動の時代の中いました。そんな迫害期、神様が一体どう愛しているのかわからない、そんな中にいる民に向かって、マラキという預言者を通して神様が↑のように語られました。やがて全ての高ぶる者、サタン、罪、それらへの裁きの宣告。

 

裁きの話はクリスマスに向かないかもしれないけど、でもちょっと考えてほしいのですが、あなたのまわりの思い煩い、罪が、苦しめるものが打ち砕かれる、勝利する、というのは本当に感謝な事ではないでしょうか。神様を信じる者にとっては勝利を得させてくださる。いや、後でまた書きますが、私たちの罪を、その代価をそのため、神様が打ち砕かる。神様との和解が同時にここにはあるのです。

 

そこに何があるのか?「しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行なう日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ」と。神様は、義の太陽をあなたの上にのぼらせ、癒しを与え、牛舎の子牛が跳ね上がるがごとくの喜びをあなたの内に与えたい、注ぎたいのです。こんな暗闇、悲しみ、世の重荷、思い煩い…何より罪が、サタンが暗闇に閉ざしているところに神様の義の太陽によってこれらから解放したいのです。

 

これを実現されるため、神様はさらにこのように約束されます。「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる」と。

 

預言者エリヤ、というのは、昔イスラエルが分裂時代、とんでもない悪王が跋扈していた時代、彼らと戦い、悔い改めに導くため活動していた、イスラエル人なら誰でも知っている有名人。でも、神様の約束はエリヤを送る、ということではない。それはあくまで象徴的。これはたぶんバプテスマのヨハネ、と呼ばれる、イエス様の来られるまでの道備えをしていた人と考えられるんですが、それも一つ。でもその人だけでは完遂しない。

 

バプテスマのヨハネと言う人を遣わす、そしてそのさらに奥に御子イエス様を遣わされた。神様は連続された愛を、それこそアッシリヤ、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマと時代が変わろうと、神様ご自身は変わらずその御手を伸ばされている。でもそれだけじゃない、その暗闇の時代に完全に、神の御子イエス様が終わりを告げられに来られる、と約束されたのです。

 

父の心を子に向けさせ、子の心を父に向けさせる、これはバプテスマのヨハネではできない、完全に、完成させる事はできないイエス様だけなのです。これは1つは親子関係を現すんでしょう。でも、もっと究極的には、父なる神様と、子なる私たちが向き合い顔と顔を合わせる、その実現なのです。

 

実は、この天地創造の始め、初めの人アダムとエヴァは、神様と顔と顔を合わせ共に生きていました。しかし、罪を犯して後、「人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した」と。私たちは悪い事をしている時、神様からその顔を避ける。でも本来の正しい神様との関係は顔と顔を見て、人格ある関係、それこそがあるべき姿なのです。

 

私たちは神様から離れ、身を隠した。神様は全部エデンの園で備えていたし、今のような遠い関係ではなかった。一緒にエデンの園で楽しく生きる者だったはずなのに、私たちは神様から身を隠し、むしろ自分たちが神になる事を考え始めた。

 

でも、この失われた関係を神様は取戻し、裁きの太陽ではなく義の太陽を昇らせるべく、神様は御子イエス様をかのクリスマス(厳密には12/25ではありませんが)に遣わしてくださったのです。顔をそむけ、もうお前たちなど知らん、ギリシャでもローマにでもやられればいい、とか見捨てるのではなく、直接顔を向け、私たちと向き合い、共に生きるために生まれてこられた。しかも、俺は神だぞ~とえばるのではなく、仕える者となるべく、赤ちゃんから、しかも貧しい家に生まれてきてくださった。

 

顔をそむけたのは神様ではなく私たちだった。だから先に神様はその御顔を私たちに向けてくださった。見捨てる事が出来ても、見捨てられなかった。そして、共に住まい、生きてくださった。その重荷を一緒に背負って、癒され、励まし、導かれ、悔い改めに導かれながら…でも最後は私たちの罪を身代りに背負われ十字架に架かられ死なれた。私たちと断絶されたこの状態を和解に導くために。見捨てられなければいけない私たちを救うために。私たちに喜びを、義の太陽を昇らせるため、癒しを与え、牛舎を跳ね上がるほどに喜びで満たすため。

 

罪ゆえに断絶された私たちと神様を、その命を持って十字架上で、「父よ彼らをお赦しください。彼らは自分たちでは何をしているのかわからないのです」と赦しを訴えられた。ご自身のいのちを差し出してまで。そうしてこの罰を良しとされた神様は、イエス様をよみがえらせ、信じるすべての人、イエス様の十字架の前に悔い改め神様に立ち返る全ての人を神様の子として受け入れてくださったのです。

 

神様はあなたを見捨てなかった。もう私たちは神様から顔をそむけてはいけない、神様のこれほどまでの愛によって救われたこの新しいいのち、この素晴らしさから目を顔をそむけてはいけない。神様の御心にその目を、顔を向け、歩もう。あなたと一緒に顔と顔を合わせ歩まれるイエス様が来られたのだから。この方が、このイエス様があなたと共に歩まれるから。

 

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです」。この約束をしっかり握りしめ、歩もう。