―あなたは1人ではない― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「主は仰せられた。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。』」

出エジプト記3章7-10節

 

私たちの歩みは1人ではない。いや、1人に感じる時もある。現実問題大変なんだよ、と言いたいときは多々あるでしょう。でも神様はあなたの横に素晴らしいパートナー、もとい救い主を送ってくださった。あなたと共に歩むために。

 

さて、↑は紀元前、かつてイスラエルの民がエジプトに奴隷として約400年に渡って捕らえられていた時の話。イスラエルの民は絶望の中にあった、いつになったら解放されるんだ、と。しかし神様は見捨てていなかった。神様はわたしが共にいるんだからほら、頑張れよ、とただ励ますだけではなく、行動に移されたのでした。

 

と言うよりも実は、奴隷として捕らえられている間、神様は苦しめられようとも彼らを力づけ、支配している側のエジプトが、彼らの反乱を恐れるほどに、数においても力においても、いや彼らの内に働く神様の姿に恐れさせるほど、神様は守っていた、目には見えなくても。神様は目には見えなくともすぐ傍で彼らのために動かれていたのです。

 

そして今、イスラエルの民は知らないですが、モーセと言う人を神様は遣わし、彼を通して神様はイスラエルの民を救い出します。彼らを苦しめるエジプトを神様ご自身が降って行き討ちます。また、映画の十戒とか、何かで海が割れて、その間を渡って行ったという話を見聞きしたことがある人がいるかもしれませんが、彼らの救いを阻む紅海を割って彼らを脱出させてくださったのです。ただ、そんな結末をモーセは知らないし、イスラエルの民もそんな神様の計画などまだ知りません。こんな苦しい中どうしたらいいんだ、と。

 

モーセだって別に格闘技を習っていたわけではありません。確かにエジプトで帝王学を学んだ(赤ちゃんの頃、神様の守りの元、殺されるどころか王女の養子になっていた)、でも今やただの羊飼い。一体彼に何ができるだろう?実際神様が、わたしが救うんだから、この救いの旅に向かって出発しなさい、わたしが守るんだから、と言われたって不安。

 

でも、私たちが忘れてはいけないのは、神様が一緒に進まれているという事、彼らの、私たちの傍らにおられるということ。神様が一緒に戦われるという事。神様は目に見えなくても私たちを心配され、あなたを解放したい、といつも動かれているという事。

 

神様は、↑でモーセにこうおっしゃられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ」。

 

神様は私たちの痛みを知って放っておかれる方ではない。聞いて、死って、降って来られる神様なのです。そして、救い出す。見て、憐れんで終わるのではなく、そのために行動を起こされる、あなたの横に来られる神様なのです。モーセを遣わしますが、彼を通して実際に神様が働かれる。神様はあなたを救うために降って来られる神様なのです。昨日のゼカリヤ書の分かち合いの中で、神様が私たちのくたびれた、汚れた、どうにもならない様々な重荷を抱えた衣を脱がせ、新しい衣を着せてくださった事を分かち合いましたが、神様は私たちの痛みを、変えてくださる。

 

神様は、時に誰かあなたを助ける御力を働かせ、また誰かを遣わされ助ける事もある。この後、どうしたらいいんだ?と言うモーセに助け手アロンを送って助けとなったように。でも、それ以上に神様はあなたのために御子イエス様と言う最高の助け主を遣わしてくださったのです。今から約2000年ほど前、かのクリスマスに。神様は遠くで見ているだけではない、あなたの苦境を知り、むしろ、同じく今日の時代、同じ重荷を背負う、あなたのくびきを共に負い、それを癒すために、私たちと同じ人間となって生まれてこられた。あなたを癒すため、あなたと共に歩むために。

 

イエス様は一日だけ観光できたわけでもない。同じようにその生涯を歩まれた。そして暗闇の中にいる人たちを訪問していった。そして多くの人を癒し、また励まし、その道を示し、時にはお腹のすいた民をお腹いっぱいにされ…イエス様は目の前の問題を放置されなかった。

 

でも、そこで終わらず私たちの内に支配する罪の問題、ここから私たちを癒すため、私たちの罪を身代りに背負われ十字架に架かられた。私たちが神様から断絶され、世に支配され、苦しむその姿を見放す事ができず、私たちの身代わりに十字架に架かられ死なれた。でも3日目によみがえられたことによって、私たちの死と言う衣、罪に、サタンに支配されたこの衣を取り去り、新しい神様の子としての衣を着せてくださった。復活のイエス様があなたの内に住まわれ、イエス様の御心、愛、御力…そうしたイエス様そのものの衣であなたを覆ってくださった。

 

この十字架によって和解された関係において、イエス様がいるから私たちは癒される。というよりも、あなたの周りの問題も、重荷も、イエス様がその御心によって変えてくださるのです。でも私たち自身が遣わされたイエス様を受け入れなければ始まらない。上で神様が救う、と言ったって、それを受け入れてモーセが出発しなければ、イスラエルの民が従い出発しなければ始まらない。神様はあなたを癒したいと招かれたのです。

 

あなたがかのクリスマスを物語で終わらせず、イエス様をあなたの内に迎える時、そこから本当のクリスマスが始まる。神様の行動は夢物語で終わらない。イエス様の命を懸けてまで取り戻された、この新しいいのちを喜び楽しもう。イエス様は来て終わりではなく、あなたと共に進まれる、世の終わりまで。神様が救い出された新しいいのち、「広い良い地、乳と蜜の流れる地」、癒された新しいいのち、神様が祝福される、御心を現されるこの旅路に大いに期待しよう。