「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて示された先見のことば。終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。多くの民が来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。』それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。来たれ。ヤコブの家よ。私たちも主の光に歩もう。」
イザヤ書2章1-5節
12月に入り師走となる。師は忙しく走り回る季節、と言いますが、神様は、12月に限らず、いつもいつもあなたのために動いてくださっている。師どころか神様が。そういえば、クリスマスには一度戦争の手を辞める、と言う話を聴いたことがありますが、私たちは神様が必ず平和を成し遂げてくださるから、私たちは神様の前に振り上げた剣を降ろし、神様に立ち帰り歩もう。
さて、昨日ゼカリヤの分かち合いを始めたばかりなのにごめんなさい。今日は、イエス様の誕生を祝うクリスマス、それを待ち望むアドベント・待降節と呼ばれる物なのでクリスマスにかかわる箇所を今日は分かち合いますね。
イエス様は今から約2000年ほど前に生まれました。でも、ある日思いつきで神様が、よし、イエス様を送ろう、と考えたわけではなく、何千年も前からイエス様の誕生は決めていたのでした。この天地万物が造られたとき、エデンの園を神様は備え、すべてを与えていました。しかし、サタンの誘惑もあったのですが、神様がくださった者に満足せず、神様は自分に最善のものを与えない、と神様よりも自分が神になる事を選んだ、神様と対立してしまった。そしてエデンの園を追放される。
でも神様は悔い改める機会を設けていた、と私は思う。神様がアダムとエヴァを捜しに来たとき、どこにいるのかわかっていた、でもわたしの元に帰っておいで、と招いていた、と思う。でも彼らは悔い改めるどころか、これは「あなたが与えたこの女が悪い」と、あくまで神様のせいにしながら妻のせいにし、妻は自分の罪を認めず、確かにサタンの誘惑もあったけど、ごめんなさいさえしなかった。
そうして追放されたアダムとエヴァには罪の呪いが降った。いや、神様がこれまで養い守ってくださっていたのに、その神様から離れたら、死が入る、命を失っていくのは必然と言えば必然なのかもしれない。でも、エデンの園から追放され、もう完全に断絶されたはずだった。炎の剣がそのエデンの園を塞いだ、と言うのですから。
でも、もう一度神様と断絶されてしまったこの扉を開くためにイエス様が誕生される、と実は、この時約束されていたのです。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」と。この神様から引き離したサタンを必ず撃ち砕きに来る、神様があなたを見捨てず、戦われる、と。この約束の成就のために、御子イエス様は、今から約2000年ほど前に来られた。
神様は私たちに対して剣を振り上げて期待したかったわけではなかった。私たちがむしろ神様に敵対していたのです。↑が語られたイザヤの時代、イスラエル王国は周辺国から苦しめられ、アラムや有名なアッシリヤ、バビロンと言った多くの敵国に苦しめられていた。彼らは当時多くの国々に襲われ、苦しめられていた。
しかし神様は、「主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない」と預言者イザヤを通して語られるのです。神様に敵対し、また苦しめる者たちを神様が必ず撃ち砕かれ、私たちが剣を降ろし、槍を変える、もう私たちが戦う必要のない日が必ず来る、と約束されます。どうしてか?神様ご自身が戦われるから。
イスラエルの民は神様に信頼せず離れていた。そして神様なんか信頼したって何にもならない、神様が与えている物はわたしの事を考えていない、と、反発していた。相変わらずエデンの園から人間のする事は変わらない。聖書だけじゃない、私たちだって他人事じゃなくそうではないですか。神様は何もしない、自分で戦おう、と自分の思う剣をもって、槍をもって戦おうとする。
何も戦争とかそういう事だけじゃないですよ?過去の傷や生活の問題、家庭、職場、人間関係、また病気…数えきれないほどの問題が、罪の結果・神様から離れて行った結果私たちは追ってしまった。神様から離れたのに、神様はわたしに何もしてくれないじゃないか、と反発する。親に反発しながら親は何もしない、と思春期や何やらで言っているのと変わらない。
でも神様はそんな子は私の子じゃない、と完全に勘当されなかった。神様は見捨てられなかった。だから、神様が平和を成し遂げるから、あなたの内に平和を築き上げるから、だから「来たれ。ヤコブの家よ。私たちも主の光に歩もう」と、私たちに語るのです、わたしの元に帰りなさい、と。わたしがその道を照らすから、と。暗闇を光に変える、と。
そういえば、イエス様が今から約2000年ほど前に来られた時、12弟子のひとりだったヨハネはこう書き残しています。イエス様と3年近く歩み、その奇跡、愛、また死、そして復活を目撃したヨハネは「この方(イエス様)にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」と。イエス様は全てのやみ、病も、差別も、何より死も、サタンもイエス様に打ち勝つ事は出来なかった、イエス様を裏切った人たちも、イエス様の前に立ちおおせる事など最後はできなかった、と。
しかも、イエス様が天に帰られた後、多くの迫害、世の苦労をこのヨハネと言う人は知っている、体験した、煮えたぎる窯の中に入れられたこともあった、幽閉された事もあった、でもイエス様の内に留まり続けるヨハネを打ち崩す事は出来なかった、と告白した。イエス様を信じる、イエス様の内に留まる時。
この勝利の光をあなたの内に届けるためにイエス様は来られた。あなたの闇を光へと変えるため、罪の奴隷であった、罪の支配下にあったあなたを解放し、神様の子へと変えるために来られた。あなたの内を支配する剣を降ろせるように。イエス様がわたしたちの罪の身代わりに十字架に架かられ死なれた、その事によって私たちの身代わりに死を体験され、罰せられ、あなたはこの平和を勝ち得たのです。あなたがイエス様を救い主として信じ受け入れるなら。
この復活のイエス様があなたの内に住まわれるために人となって来られた。十字架で身代りに死なれたけど、3日目によみがえられたことによって、信じるすべての人のうちにイエス様は住まわれ、あなたの内に神様の平和、いのちを、光で満たしてくださる。だからこそ、私たちこそ、神様の前に振り上げた剣を、敵対関係にあったこの剣を降ろそう。もうあなたへの裁きの剣はイエス様に刺し貫かれた。あなたが神様に振り上げた剣を、アダムたちがしたようにではなく、降ろす時、あなたはこの平和を得る。神の子とされ、御子イエス様のいのちと共にすべての恵みを、愛を、御心をもってあなたを満たされる。
もう神様の前に戦う事を辞め、罪と闘おう。世の問題と、イエス様が一緒に戦い、その栄光を持って驚くべき御業をなしてくださるから。今日も神様は師走、あなたのためにいのちで満たそうと走り回る、ではないけど働かれている。この神様に大いに信頼し歩もう。