「次の人々は、テル・メラフ、テル・ハルシャ、ケルブ、アダン、イメルから引き揚げて来たが、自分たちの先祖の家系と血統がイスラエル人であったかどうかを、証明することができなかった。すなわち、デラヤ族、トビヤ族、ネコダ族、六百五十二名。祭司の子孫のうちでは、ホバヤ族、コツ族、バルジライ族。―このバルジライは、ギルアデ人バルジライの娘のひとりを妻にめとったので、その名をもって呼ばれていた―これらの人々は、自分たちの系図書きを捜してみたが、見つからなかったので、彼らは祭司職を果たす資格がない者とされた。それで、総督は、ウリムとトンミムを使える祭司が起こるまでは最も聖なるものを食べてはならない、と命じた。全集団の合計は四万二千三百六十名であった。このほかに、彼らの男女の奴隷が七千三百三十七名いた。また彼らには男女の歌うたいが二百名いた。彼らの馬は七百三十六頭。彼らの騾馬は二百四十五頭。彼らのらくだは四百三十五頭。ろばは六千七百二十頭であった。一族のかしらのある者たちは、エルサレムにある主の宮に着いたとき、それをもとの所に建てるために、神の宮のために自分から進んでささげ物をした。すなわち、彼らは自分たちにできることとして工事の資金のために金六万一千ダリク、銀五千ミナ、祭司の長服百着をささげた。こうして、祭司、レビ人、民のある者たち、歌うたい、門衛、宮に仕えるしもべたちは、自分たちのもとの町々に住みつき、すべてのイスラエル人は、自分たちのもとの町々に住みついた。」
エズラ記2章59-70節
神様の願いは、私たちの内にいのちが結ばれていく事であって、失われていく事ではない。時に試練を通る時があっても、イエス様が一緒である、その事を忘れてはいけない。あなたのためにいのちをも惜しまず与えるほどの方が。
さて、エズラ記が続いていますが、↑は時は紀元前。イスラエルの民がバビロンによって捕囚されて70年、バビロンを打倒したクロス王・クセルクセス王により、イスラエルの民は捕囚から解放された、そこからこのエズラ記が始まります。↑はその中で今イスラエルに帰って行く民たちの記録になります。
神様は、イスラエルの民がバビロンに捕らえられていた間もその御目を注がれていた。イスラエルの民は、神様の憐みによって救い出され、国も守られてきたのに、神様を捨て、他の偽の神々を拝み神様を捨てて行った。自分の思うようになる神を求め。でも神様は彼らを見捨てず、何度も助け手を送り、また多くの奇跡をなされ悔い改める機会を何度も示された。にもかかわらず最後まで神様を捨て続けた、何度裏切られても帰ってくるのを待っていた神様を捨て続けたイスラエルはついに捕囚にあった。
しかし神様の憐みはまだ尽きず、バビロニア帝国においても、ダニエルという人を中心にイスラエルの民を高官に据えて守ったり、エゼキエルという預言者を捕囚の民の中に置かれながら、神様がまだ見捨てていないことを示し、また励まし続けてくださった。
でもね、神様を信じることって希望的観測、精神論、と感じるかもしれないですけど、とんでもない話なんです。昨日、数字の話を書きました、1ケタに至るまで、1人1人に神様は目を留めておられた事、また、歌うたいや門衛に至るまで、特別な人だけではなく、そんなに目を留められないような人たちに至るまで神様の恵みは、愛は届いていたことを書きました。でももう一つ、驚くべき記録が残されていた。
それは、捕囚前と比べてイスラエルの民が増え広がっていた、という事なのです。捕囚前に活動していたエレミヤという預言者の記録によれば、捕囚されていった人数は4600人。しかし、この70年の間でその約10倍の、42360人まで増え広がっていた。もちろん当時の年をとった人たちで亡くなられた方もいたであろう、それでも10倍にまで増え広がって行った。もう絶望するしかないような状況下にあっても神様は、彼らを守り続けていたのです。
たまたま?違う。神様は捕囚される前からエレミヤを通してこうおっしゃっていた。「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。『エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に。家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。妻をめとって、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻をめとり、娘には夫を与えて、息子、娘を産ませ、そこでふえよ。減ってはならない。わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。』」。
彼らは確かに彼らの罪ゆえに苦難を通らなければならなかった。でも神様は彼らを見捨てず、彼らを繁栄させる、彼らを覚え、その恵みを、愛を注ぐ、だからしっかりと腰を据え、あなたの置かれているところにおいて、神様を求めよ、と訴えるのです。神様の御心、愛によって彼らをそれでも養っていく、と。その結果として多くの実が結ばれ、↑に見るように、多くの奴隷や「彼らの馬は七百三十六頭。彼らの騾馬は二百四十五頭。彼らのらくだは四百三十五頭。ろばは六千七百二十頭」という物理的な財産も与えられていたのです。神様は決して見捨てていなかったのです。神様は希望的観測だけではなく、私たちにいのちを、御心で満たしたいのです。ご自身の素晴らしい財産をもって。
先程のエレミヤの預言には続きがあります。「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる」。
神様は、私たちの祈りを聴き、また希望を与える計画を神様はあなたの内に持っている。時に私たちは試練の中、辛い中を通るかもしれない。しかし神様は私たちを捜し求め、見つけられに来てくださった。御子イエス様を遣わされ、生まれさせてくださり、同じような苦しみの時代の中にあって、同じ重荷を背負ってくださり、出会ってくださり、癒してくださり…何より、私たちに一時的な希望ではなく、将来、永遠にわたる希望を耐えるため、私たちの罪の代価を身代りに背負われ十字架に架かられ、死なれた。出も死んで終わりなら希望はない、しかしよみがえられたことによって、私たちに救い・神様との和解の道を用意されたのです。あなたを世の様々な重荷、何よりサタンの手、罪から解放し、神様のいのちの道へと連れ導くため、命までかけてくださったのです。
↑に登場する、自分たちの系図(イスラエルの民・神様の民)を大切にしなかった人たち。彼らは理由は分からないが、もうイスラエルの民であることが、神様の家族であることが何の役に立つであろうと、その出所、アイデンティティ、いや神様の養いをないがしろにしていた。しかし、私たちはもう一度思い出そう。あなたは、私は、この御子イエス様のいのちにあって救われた者であると。罪の奴隷、捕囚地から、神様が、復活のイエス様が共に導かれる新しい旅路に今ある事を覚えよう。最高の良きもの、救いを失う者とはならず、クロス王・クセルクセス王のごとく、「天の神、主は」私に全ての良きものを賜ってくださった、と告白し歩もうではありませんか。そして御子イエス様の内に住まい続けこのいのちにあって生かされ続けよう。
