「ペテロが、いま見た幻はいったいどういうことだろう、と思い惑っていると、ちょうどそのとき、コルネリオから遣わされた人たちが、シモンの家をたずね当てて、その門口に立っていた。そして、声をかけて、ペテロと呼ばれるシモンという人がここに泊まっているだろうかと尋ねていた。ペテロが幻について思い巡らしているとき、御霊が彼にこう言われた。『見なさい。三人の人があなたをたずねて来ています。さあ、下に降りて行って、ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです。』そこでペテロは、その人たちのところへ降りて行って、こう言った。『あなたがたのたずねているペテロは、私です。どんなご用でおいでになったのですか。』すると彼らはこう言った。『百人隊長コルネリオという正しい人で、神を恐れかしこみ、ユダヤの全国民に評判の良い人が、あなたを自分の家にお招きして、あなたからお話を聞くように、聖なる御使いによって示されました。』それで、ペテロは、彼らを中に入れて泊まらせた。明くる日、ペテロは、立って彼らといっしょに出かけた。ヨッパの兄弟たちも数人同行した。その翌日、彼らはカイザリヤに着いた。コルネリオは、親族や親しい友人たちを呼び集め、彼らを待っていた。ペテロが着くと、コルネリオは出迎えて、彼の足もとにひれ伏して拝んだ。するとペテロは彼を起こして、『お立ちなさい。私もひとりの人間です』と言った。それから、コルネリオとことばをかわしながら家に入り、多くの人が集まっているのを見て、彼らにこう言った。『ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人の仲間に入ったり、訪問したりするのは、律法にかなわないことです。ところが、神は私に、どんな人のことでも、きよくないとか、汚れているとか言ってはならないことを示してくださいました。それで、お迎えを受けたとき、ためらわずに来たのです。…」
使徒の働き10章17-29a節
神様は、本来罪人のところに恵みを施しに来るなどあり得ないのに、神様ご自身が、ためらうことなく私たちを救いに来られた。私たちがいのちを得るためなら命さえ惜しまず。あなたを愛する決断をされた。神様の御手は今日もあなたの前に広げられている。今日私たちは神様の元に帰ろう。
さて、↑は4日前の投稿の続きになりますが、イタリア隊の百人隊長のコルネリオが神様の憐みを受ける箇所。時は紀元1世紀。当時イスラエルは、というよりもその辺一帯、ローマ帝国に支配された暗黒時代だった。さらには偽宗教家が、神様の愛を捻じ曲げて自分たちの権力を誇示するために宗教を利用し、民を苦しめるという最悪の時代でした。神様に仕えるはずの彼らが神様を利用し自分たちの地位を維持する、ありえない、ローマから解放されるべく神様の希望を語るべきなのに。
しかし神様は彼らを見捨てることなく、希望の光として、このようなきつく辛い時代に、救い主イエス様が人となって生まれてこられた。ただ旅行で来られたり一時的に来られたのではなく、赤ちゃんとして生まれてこられ、人と同じように歩まれた。そして人々の希望となられ、多くの人を癒され、希望を与え、とらわれ人を解放し、罪の道、神様を知らずに歩んでいる人々を悔い改めに導いていった。もちろん反発もあった。何より最後には群衆に裏切られ、十字架に架けられ死なれた。
でも、それは神様の御心だった。私たちを一時的に救うだけだったら、時々助けに来たり、上から何かを注げばいい、でもそれだけではダメ、私たちがこのいかんともしがたい神様との断絶、罪から解放されない限り、神様と和解しない限り、一時的な喜びを与えても意味がない、と私たちの罪の代価を、どんなに裏切られても、辞めること無く十字架で身代りに罰せられ、死なれた。そしてよみがえられたと共に、神様と私たちを和解させ、悔い改め神様に立ち返る者の罪を赦し、神様の子として迎え入れ、永遠のいのちを与えて下さった、神様の恵みが注がれる最高のあなたへとしてくださる、その道を備えてくださったのでした。
イエス様は、その後天に昇られ、今度は新しい助け主として聖霊様を送ってくださり、そしていよいよ教会時代が始まりました。イエス様の十字架と復活による喜びにあふれ、神様と和解された民たちが集まり教会が誕生しました。まさに神様のその愛、救いは十字架を通して多くの人に広げられた、一部の人ではない、全ての人に。
↑はまさにそれを象徴するような出来事だった。↑で12弟子の一人、ペテロが言うように、本来は外国人とイスラエル人は交流する事は許されなかった。いや厳密には良かったんですよ?だからこそ、外国人がイスラエルの民に加わり預かり、なんとイエス様の系図(家系図)の中にも異邦人の名前も残るほどですから。ただ、イスラエルの民はこの恵みを忘れていた、ペテロでさえ。
そこで神様は、↑の出来事の直前に、神様が汚れているとかつて定めた動物たちを、屠って食べなさい、と夢を見せておっしゃられたのでした。天からつりさげられた敷物にそれらの動物が乗っていて。神様が聖い、と言われたらそれは聖いのだから、彼らを受け入れるように、と。その命令を聴いたペテロは、イスラエルの民の仲間たちのところに彼を連れて行き、受け入れようとしたのでした。
冷静になって考えたら、↑で外国人は受け入れられない云々と言っていますが、ペテロ自身はどうだったかと言えば、イエス様の側近のような立場にさせていただきながら、イエス様とならどこにでも、牢獄だろうと一緒に行く、と宣言しながら、イエス様が逮捕されると一目散に逃げ出し、イエス様とお前は一緒にいた男だろうと言われたときには必死に3度否定し、3度目には呪いをかけて否定したほどの男。
そんな男が、神様にとってどうして愛する対象であるはずがあるでしょう?神様からしたら神様の家族の蚊帳の外という意味での異邦人に追い出されてもおかしくないはずの男だったのです。しかし、神様はその愛を、天からその窓を開き、イエス様はためらうことなく人となって来られた、神であられるのにそのありようを捨てられないとは考えずに全く人と同じようになって来られ、人と同じ苦しみを味わい、重荷を背負いながら、ののしられてもそれでもその愛を現した、その愛を惜しむことなく、ためらわず現され、十字架にまでためらうことなく進まれたのです。こんな裏切り者などなぜ愛さなければいけないんだ!と私たちを捨てることなく、ためらうことなくあなたを愛する事を選ばれた。
そして、本来受け入れられないはずの異邦人、というよりも神様を捨て、神様を裏切り、好き勝手に歩んできた私たちなど神様の家族から追い出された蚊帳の外の異邦人であるはず、その私たちを迎え入れ、罪の奴隷としてではなく罪赦し、神様の子として、ためらうことなく迎え入れに来てくださった、十字架で死なれ、陰府に降って行ってまで、死にゆくべき私たちを引き上げられたのです。
私たちはペテロが言うように人間でしかない。コルネリオが感動してひれ伏しましたが、素晴らしいのは神様だけ。神様が、その愛をためらうことなく注ぐために御子イエス様を十字架に架けて死なせる決断をされ実行された。それゆえに神様の子として受け入れられ、復活のイエス様があなたの内に住まわれ、その御心を現されるからこそ、私たちは本当の意味で生きた者とされる、ただの人間、罪人であるはずの私たちが神様の恵みに溢れ生きさせてくださる、たとえ彼らの最悪の時代の中にあっても神様の栄光が、人から見てすごいと思うほどに豊かに現されるのです。
今日、裏切者のペテロに、本来受けるに値しない罪人に、またコルネリオに神様がその愛の御手を広げられたように、今日あなたに向けて開かれている。あなたがこの愛を受け入れ、コルネリオのようにイエス様のお迎え、愛に来てくださったイエス様を今日受け入れ、イエス様と共に歩もう。神様はあなたを神様の御心、愛の蚊帳の外ではなくその愛の内側に今日も招かれているのだから。このいのちを今日、受け取ろう。
なお、この直前の出来事のショートメッセージは↓から読めます。
https://ameblo.jp/petermakoto/entry-12505655104.html