―天から広げられたふろしき― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「さて、カイザリヤにコルネリオという人がいて、イタリヤ隊という部隊の百人隊長であった。彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていたが、ある日の午後三時ごろ、幻の中で、はっきりと神の御使いを見た。御使いは彼のところに来て、『コルネリオ』と呼んだ。彼は、御使いを見つめていると、恐ろしくなって、「主よ。何でしょうか」と答えた。すると御使いはこう言った。『あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。さあ今、ヨッパに人をやって、シモンという人を招きなさい。彼の名はペテロとも呼ばれています。この人は皮なめしのシモンという人の家に泊まっていますが、その家は海べにあります。』御使いが彼にこう語って立ち去ると、コルネリオはそのしもべたちの中のふたりと、側近の部下の中の敬虔な兵士ひとりとを呼び寄せ、全部のことを説明してから、彼らをヨッパへ遣わした。その翌日、この人たちが旅を続けて、町の近くまで来たころ、ペテロは祈りをするために屋上に上った。昼の十二時ごろであった。すると彼は非常に空腹を覚え、食事をしたくなった。ところが、食事の用意がされている間に、彼はうっとりと夢ごこちになった。見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来た。その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいた。そして、彼に、『ペテロ。さあ、ほふって食べなさい』という声が聞こえた。しかしペテロは言った。『主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。』すると、再び声があって、彼にこう言った。『神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。』こんなことが三回あって後、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。」

使徒の働き10章1-16節

 

神様は本来受けるに値しない者たち、いや私たちにその溢れんばかりの祝福を広げようと、天の窓を開かれた。御子イエス様の十字架によって。そのいのちによって。でも私たちはこれを受け取りに行かなければこのいのちの和解は受けられない。神様からすでにその窓は開かれている。あなたは今日これを受け取るだろうか。

 

さて、↑は1世紀ごろの出来事。神の御子たるイエス様が人となってお生まれになり、人々の間にその愛を余すことなく注ぎ、時に癒され、時に励まし、慰め、また導き、悔い改めに桃ちび枯れて行った。社会的に見捨てられているような人たちにさえその憐みを注がれていった。でもそれだけではなく、御子イエス様は私たちの罪の身代わりとなって十字架に架かってくださった。神様から離れ、好き勝手に生き、神様を自分の成功する道具、操り人形のように見、また扱う私たちを、それでも憐れまれ、いのちを注ぐために。そう、これが罪なのですが、この罪の代価を御子イエス様が身代わりに背負われ、十字架に架かられ、死なれた。でもそこで終わらず、3日目によみがえられ、人々の前に現れ、後に天に昇られた。

 

その後、イエス様は約束通り新しい助け主なる聖霊様を注がれ、教会が誕生し、弟子たちや、キリストを信じる人たちによって、その救いの恵みがあちらこちらに広げられていった。その恵みが、神様の愛がまさに、一部の人たちだけではなく、全ての人に広げられていったことを象徴する出来事が、まさに世界にキリスト教が広がる前にあったのです。それが↑。

 

ある日、コルネリオと言う人、神様を愛し神様に仕え生きていた、いわゆる異邦人。当時救いはユダヤ人から、と思われていた(まあもともと祝福の源をイスラエル・ユダヤ人に神様は選んでいたからあながち間違いでもないのですが)、だから弟子たち・使徒たちは異邦人が救われる、神様の憐みに与る事はあり得ない、と考えていた。しかし、神様は、イエス様が愛を注ぐに値しないような人たちさえ憐れまれていったように、そのふろしきは、天の窓は実は全ての人に向けて広げ得られていたのです。そして、願わくばその祝福の一端だけでも味わえれば、と思っていたコルネリオに神様はその御手を開かれ、この救いの機会に招かれたのです。

 

実はこの先の箇所に出てくるのですが(あまりに長くなるので、その話はまた次の機会)、彼は外国人とユダヤ人は交わってはならない、と考えていました。まあ、異邦人の文化を取り入れて行った結果、イスラエルに外国の悪い文化や習慣(人身供養とか)が入り込んでイスラエルが捕囚されていくきっかけとなった事から反省して、と言う面もあるかもしれませんが。だから、コルネリオがいくらペテロに会いに行ったって取り合取りあってはもらえなかったはず。

 

しかし神様はあらかじめペテロに幻を召せられた。それは、いわゆる神様の定めた律法で食べてはならないと定められた(当時の調理技術や衛生的な問題もあったでしょうが)汚れた動物のオンパレード、汚れた動物が入った敷物が天から降りてきて、これが広げられ、これをほふって食べなさい、と命じるのでした。しかし、神様がダメと言われた事、食べるなと言われたものを食べるわけにはいきません、と返すのでした。うん、ある意味で彼はまじめだった。

 

でも神様は、「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない」と返された。神様が、汚れた者とされた者も、きよめられればそれは良い物に、きよいものに変えられるんだ、と。

 

この汚れた動物は、これまで本来受けるに値しないはずだった、コルネリオを含むイスラエル以外の民、異邦人を現していました。いや、もっと厳密にいうなら、本来神様から離れて行った私たちなど神様の目から聖い者などいないのです。だから、私から言わせたら、そんなことを言っているペテロも、私たちもみんな本来神様の目から見たら汚れた者。

 

しかし、神様はそのように天からの素晴らしい恵みを受けるに値しないはずの私たちを洗い聖め、良い物に作り替えるため、いのちあるものとするため、最初の方にも書きましたが、御子イエス様を十字架に身代りにかけられ、罰せられ、死なせた。そしてよみがえりと共に、私たちを汚れた者から聖められたものとしようとされたのです。その天の窓は、きよい人、完璧な人だけに開かれたのではない、全ての人のために開かれ、その恵みは解放された。救いの業がなされたのです。神様はその汚れた者、私たちを聖い者、神様の子、罪の奴隷ではなく神様の子へと引き上げるため、造りかえるため、その天の窓を開き、こいつは汚れた者だから受け入れない、と宣言するのではなく、かえって今コルネリオをその恵みに招かれたように、私たちを呼びだしてくださったのです。

 

そしてコルネリオのようにこの神様の救いの声に応答する時、私たちはこの恵みを受け取り、神様の溢れんばかりの祝福、天の窓が開かれ続け、これを受ける、新しい助け主なる聖霊様を受け、この御霊様によって私たちは導かれる。神様の恵みの実を結ばせていただくのです。

 

ペテロは自分がイエス様を3度にわたり否定し、最後は呪いをもって否定した。しかしそんな自分が罪赦され憐れまれた者であるという事をこれまで忘れていた。ある意味では、これから世界宣教に向かっていく、またローマによる迫害期の中で、もう一度神様は彼らに、イエス様の愛を、そしてそれ程にあなたを愛されている、その神様との和解によって、この天の窓は開かれ続け、神様との親子関係が続いている、だからこそ、神様を覚え続ける大切さをもう一度ペテロにも語られたのではないか。

 

私たちはもう一度この十字架の救いを、神様の愛を覚えよう。そしてコルネリオのように、またペテロのように神様の恵みの御座に近づき、この開かれた天の窓、神様と和解させていただいたこのいのちの道を、世の終わりまで歩み続けようではありませんか。神様が広げられた窓、ふろしき、敷物から起こされる大いなる御業に期待して。