これはアメリカでの出来事です。
あるひとりの中年の主婦が、ス-パ-で買い物を済ませて、駐車場に止めてあった自分の車に帰ってきました。すると、なんと4人の若者がその婦人の車に乗り込んで、今にも走り出しそうだったのです。彼女はびっくりしたのです。買ったばかりの新車で、ロ-ンも終わっていないのです。抱えていた荷物を放り出して、急いで走っていって、その車の前に立ちふさがったのです。そして、バックから護身用の銃を取り出して、「あんたたち。何してんの。早く降りなさい」と叫んだのです。すると乗っていた十代の若者が、クモの子を散らすようにぱ-っと逃げて行きました。ほっとした婦人は、荷物を集めて、車の後部座席に置き、運転席に座って、「やれやれ」とキ-を差し込もうとしました。ところが入りません。ふと隣りを見ると、何と同じ車があるのです。その時にようやく、彼女は気がついたのです。自分がとんでもないカ-ジャックをしてしまったということに。
何という勘違いでしょうか。犯罪です。すぐ近くの警察に自首しました。するとそこに、「変なおばさんが俺たちの車を盗んだ」と、4人の若者が訴えに来ていたのです。事情を説明して許してもらったのだそうですが、このような勘違いは、私たちの人生にいつでも起こることです。
例えばある人は、人生は自分のものだと思っています。しかし聖書を開いて私たちは悟ります。それは私の人生ではなく、神が私に与えて下さった人生だということを。私たちの人生には、さまざまな問題が起こります。ある人々はその問題の解決のために合わないキ-、違う鍵を差し込んでいるのです。「自分中心」という鍵です。私たちの人生は神から与えられたものですから、イエスという鍵を差し込まない限りは、物事が解決の方向に進んで行かないのです。
「キリストを宣べ伝える」 安食弘幸著より
所感)私たちに与えられている鍵は、御子イエス様のいのちゆえに与えられたもの。私たちはどの扉を開き、何を求めるだろうか?