ー罰せられなければ何をしてもいいのか?ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」

ガラテヤ人への手紙3章23-24節

 

※これは政治批判をするための投稿ではない事を先に書いておきます。1分くらいで読める聖書のお話し。

 

今朝TVを見ているとある政治家さんが、「法律で罰せられない事は何をしてもいい」と言う発言をしていた。その方が例に挙げていたのが、「歩道を自転車で走っても罰せられないから走っても自由だ」と。

 

でも、ちょっと冷静になって考えてみると、罰せられなければ何をしてもいいのだろうか?

 

ちょっと法律面から離れて聖書から冷静に考えてみると、神様が罰せられていないんだし、別に何をしてもいいじゃん、聖書に書いてない事は別にしてもいいのでは?という考えが人の考えに起こる(クリスチャンでさえ)。もう罪赦されたなら別に何をしてもいいのでは?と。

 

でも本当にそうなのでしょうか?神様はなぜ、律法を定められたのか、聖書にはこのようにあります。「信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」(ガラテヤ人への手紙3章23-24節)と。

 

そう、私たちを縛り付けるためではなく、神様と私たちを結びつける、私たちが神様のいのちの内を歩めるよう、神様の恵みを受けられるよう定められた。決して縛り付けるためのものではない。私たちが幸せになるため。聖書にはさらにこうあります。「これは、あなたがたの神、主が、あなたがたに教えよと命じられた命令・おきてと定め・である。あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地で、行なうためである。それは、あなたの一生の間、あなたも、そしてあなたの子も孫も、あなたの神、主を恐れて、私の命じるすべての主のおきてと命令を守るため、またあなたが長く生きることのできるためである。イスラエルよ。聞いて、守り行ないなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、あなたの父祖の神、主があなたに告げられたように、あなたは乳と蜜の流れる国で大いにふえよう」(申命記6章1-3節)。

 

神様は、私たちを幸せにしたい、とご自身の元に引き寄せようとされた。そしてその愛の究極として、御子イエス様を十字架に架けられた。私たちの罪を身代りに背負わせ十字架に架けて死なせた。そして3日目によみがえられたことによって、律法によるのではなく、御子イエス様のいのちによって私たちと神様を和解させてくださったのです。神の御子イエス様のいのちによって繋がれたのです。これ以上強いきずなはありません。

 

↑の直前に、パウロと言う伝道し、この手紙を書いた人はこのように書きました。「ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。『義人は信仰によって生きる』のだからです」。法律がどうじゃない、律法がどうじゃない、聖書に書いてないからじゃない、あの人はこう言っているから大丈夫、じゃない、あの人がそうしているから大丈夫、ではない。私たちはこの御子イエス様のいのちによって繋げられた、この幸せの中に、神様の御心のうちに、神様の養いの内に生きるのです。律法によってではなく、この神様に従う、イエス様のいのちによって買い戻された新しいいのち、これを無下にしてはいけない、神様をどうして悲しませる事が出来るか、そこまで愛されたのに。

 

今裁かれてないから、何も起こってないから別にしていいではない。パウロは↑の手紙の最後の方でこのようにまとめます。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」(ガラテヤ人への手紙6章7-9節)。

 

私たちは何を刈取りのか。どこから刈り取るのか。聖書に書いていないからと罪、世から刈取りをするのではなく、イエス様のいのちの内から刈り取らせていただこう。イエス様はあなたの内に住まわれ、実を結ばせてくださろうと、あなたが迎えるのを、あなたの心を向けるのを待っておられる。