「しかしイスラエルの子らは、聖絶のもののことで不信の罪を犯し、ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶のもののいくらかを取った。そこで、主の怒りはイスラエル人に向かって燃え上がった。ヨシュアはエリコから人々をベテルの東、ベテ・アベンの近くにあるアイに遣わすとき、その人々に次のように言った。『上って行って、あの地を偵察して来なさい。』そこで、人々は上って行って、アイを偵察した。彼らはヨシュアのもとに帰って来て言った。『民を全部行かせないでください。二、三千人ぐらいを上らせて、アイを打たせるといいでしょう。彼らはわずかなのですから、民を全部やって、骨折らせるようなことはしないでください。』そこで、民のうち、およそ三千人がそこに上ったが、彼らはアイの人々の前から逃げた。アイの人々は、彼らの中の約三十六人を打ち殺し、彼らを門の前からシェバリムまで追って、下り坂で彼らを打ったので、民の心がしなえ、水のようになった。ヨシュアは着物を裂き、イスラエルの長老たちといっしょに、主の箱の前で、夕方まで地にひれ伏し、自分たちの頭にちりをかぶった。…主はヨシュアに仰せられた。『立て。あなたはどうしてそのようにひれ伏しているのか。イスラエルは罪を犯した。現に、彼らは、わたしが彼らに命じたわたしの契約を破り、聖絶のものの中から取り、盗み、偽って、それを自分たちのものの中に入れさえした。だから、イスラエル人は敵の前に立つことができず、敵に背を見せたのだ。彼らが聖絶のものとなったからである。あなたがたのうちから、その聖絶のものを一掃してしまわないなら、わたしはもはやあなたがたとともにはいない。立て。民をきよめよ。そして言え。あなたがたは、あすのために身をきよめなさい。…』」
ヨシュア記7章1-15節
神様は、私たちを愛し、私たち一人一人に、それぞれの愛を、計画を注がれる。流れ作業のような愛ではなく、1人1人思いをもって全ての良きものを備えてくださって、導こうとされる。あなたの人生を神様のいのちで満たそうとされる。私たち自身が神様に明け渡す時、そこに神様のいのちが満ち溢れる。今日、私たちはこの神様の愛を受け取りに進み出よう。神様は喜んであなたを迎えてくださるから。
さて、↑は聖書の中では隠したい歴史の一つかもしれない。あまり残したくない記録。でも神様は都合の悪い事を隠さない、というよりもあなたを生かす道にいつもあなたを導きたい、だから隠し立てしないのです。
話しは戻して。↑は紀元前、かつてエジプトの奴隷として捕らえられていたイスラエルの民、約400年間。しかし神様の憐みによって彼らは神様によって救い出され、しかも神様ご自身が共に進まれる、罪の奴隷ではなく神様の民・家族とされ、今神様が新しいいのちの土地、乳と蜜の流れる地・物理的には肥沃な大地、霊的には神様ご自身が養われ、治めてくださる地に導かれたところでした。この直前の箇所では神様ご自身が先頭に立って戦われ、勝利を収めた。もうイスラエルは喜びに満ち溢れていたのでした。しかし、この直後、イスラエルは大敗北を喫します。アイという地で、直前に戦った敵よりも弱い、数も少ない相手なのに徹底して。
神様が導かれたのに何で?と思う。神様は愛ならどうしてそんなことがあるんだ?と。実はこの敗北にはいくつか理由がありました。それは第一には↑でも書かれていますが、アカンという人が、先の闘いで得た戦利品に手を出したことでした。神様はこれは聖絶のもの(すべて断ち切るものであり、神様にお返しすべき物。これらは本来再分配されるはず)だから、手を出してはならない、と言っていた、にもかかわらず彼は手を出し、神様を拒否した。これは私のものだ、私によって買った勝利なのだ、何で神様なんかにお返ししなければならないんだ、と拒否した、それゆえに神様が離れ、敗北を喫したのです。
もう一つ原因が見えます。それは、ヨシュアたちもまた神様により頼まなかった。彼らは前の闘いは圧倒的に勝利を収めた、もう神様がいなくても大丈夫だろう、と神様の前に祈ることをしなかった。どうやったら勝てますか?とお伺いを立てる事もしなかった。前のように。彼らもまた神様の前に謙虚ではなかった。
しかし彼らは、神様から導き出され新しくされたこの新しいいのちの道から神様を追い出してしまったのです。ここ1週間くらいずっと書いてきたこと、これは神様がいるから成立するのであって、神様を追い出したら何にもならない、だって私たちを潤し、魂を生き返らせ、養われ導かれるのは神様、輝かせるのは神様なんですから。世界中のどんな本にも納められない神様の愛が私たちの内に用意されているのは神様、その神様を追い出したら何もならないじゃないですか。その本をだれが書き、誰が実を実らせていくんですか?
アカンは神様がこれから与えようとしている物は期待できない、私は私でこの生涯を築く、と神様が与えるいのちよりも、見せかけだけの罪に支配させてしまった。その結果彼は死に向かって行きます。一時の成功、富を見ても、それは次の闘いでは生きなかった。また戦利品を勝ち取ってさらに富を築こうと思ってもその思いは彼を強くする事も富ませる事も出来ず、いのちを失っていく。
かつてエデンの園でアダムとエヴァに、神様は全ての良きものを備えていた。園の中央の木の実以外からは何でも食べていい、と。神様は全部を与えなかったのはケチだから?違う。彼らにとって大事なものはそれで十分。園の中央、主権はわたしにある、その主権はわたしにまかせなさい、あなたを生かそう、それをまさに示されていた。
サタンは神様が私たちが神様のようになるのが嫌だからそう言ったんだ、と主張しましたがとんでもない、神様は私たちが神様に似た者になるのを何より喜ばれる、でも、私たちは神様から引き離すものを断ち切らなければいけない、↑で神様がなぜ聖絶を命じたのか?あなたの命を奪い去るものを切らなければあなたがいのちを失っていく、だからそう命じたのです。神様との関係を断ち切るのではなく、この罪をあなたをむしばむ何かを断ち切らせたかったのです。
それはなんだろう?あなたの痛み?過去?神様を神様とできない、神様にはゆずれない罪?それは様々あるでしょう。しかし、神様はこれらを打ち砕き、あなたの内に神様の御国を建て上げるため、神様の御心をあなたの内に現し、塗り替え、御力を現し養い導かれる、そのようなあなたへと造りかえるため、彼らをエジプトから救い出し、その痛みや何やら全部撃ち砕き、神様の民と変えてくださった。直前の闘いもそうだった。
あなたにだってそうですよ?神様はあなたの哀しみも痛みも傷も過去も全部、あなたを追い込み神様にある希望から引き離し、あなたを支配しようとするサタン、罪、それらを一切撃ち砕くため、御子イエス様が十字架に架かられ、死なれ、またよみがえられたことによってそれらを完全に打ち砕いてくださったのです。
私たちはもう、神様から頂いたこのいのちをサタンの手に渡してはいけない。ヨシュアたちが忘れていた、神様に「今日私はどうしたらいいですか?」といつもお伺いを立て、神様の御心が成る事をいつも祈り求めようではありませんか。本来私たちはこのまま敗北者、神様から見捨てられなければならなかったところ、都合の悪いあなたがたを捨てるのではなく生かすため、神様は今ヨシュアたちに「立て。民をきよめよ」と語られたように、その御手はなお伸ばされているのです。私たちはこの神様の前に帰ろう。今自分の内に様々な思いがあるなら、これら全部神様に委ねてみましょう。神様はその思い煩い全部知って、あなたの内にその愛を御心を語られ、導かれ、造りかえてくださる。神様のいのちが溢れる地に。この神様に今日、立ち返り、神様の聖め、いのちを今日いただこうではありませんか(明日の投稿に続く)。