ー取るべき武具とお返しするものー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「第十二の月、すなわちアダルの月の十三日、この日に王の命令とその法令が実施された。この日に、ユダヤ人の敵がユダヤ人を征服しようと望んでいたのに、それが一変して、ユダヤ人が自分たちを憎む者たちを征服することとなった。その日、ユダヤ人が自分たちに害を加えようとする者たちを殺そうと、アハシュエロス王のすべての州にある自分たちの町々で集まったが、だれもユダヤ人に抵抗する者はいなかった。民はみなユダヤ人を恐れていたからである。諸州の首長、太守、総督、王の役人もみな、ユダヤ人を助けた。彼らはモルデカイを恐れたからである。というのは、モルデカイは王宮で勢力があり、その名声はすべての州に広がっており、モルデカイはますます勢力を伸ばす人物だったからである。ユダヤ人は彼らの敵をみな剣で打ち殺し、虐殺して滅ぼし、自分たちを憎む者を思いのままに処分した。ユダヤ人はシュシャンの城でも五百人を殺して滅ぼし、また、パルシャヌダタ、ダルフォン、アスパタ、ポラタ、アダルヤ、アリダタ、パルマシュタ、アリサイ、アリダイ、ワイザタ、すなわち、ハメダタの子で、ユダヤ人を迫害する者ハマンの子十人を虐殺した。しかし、彼らは獲物には手をかけなかった。その日、シュシャンの城で殺された者の数が王に報告されると、王は王妃エステルに尋ねた。『ユダヤ人はシュシャンの城で、五百人とハマンの子十人を殺して滅ぼした。王のほかの諸州では、彼らはどうしたであろう。あなたは何を願っているのか。それを授けてやろう。あなたはなおも何を望んでいるのか。それをかなえてやろう。』エステルは答えた。『もしも王さま、よろしければ、あすも、シュシャンにいるユダヤ人に、きょうの法令どおりにすることを許してください。また、ハマンの十人の子を柱にかけてください。』そこで王が、そのようにせよ、と命令したので、法令がシュシャンで布告され、ハマンの十人の子は柱にかけられた。シュシャンにいるユダヤ人は、アダルの月の十四日にも集まって、シュシャンで三百人を殺したが、獲物には手をかけなかった。」

エステル記91-15

 

私たちはこの世にあっては様々な戦い、悩み、問題がある。しかし、私たちには最大の武具が与えられている。神様自身です。神様に信頼する事、従うことこそ最大の武器です。それは私たち自身をお返ししなければ始まりませんが、神様ご自身が働く時、そこには大きな何かが起こる。神様の御心が。

 

さて、↑は紀元前の話。バビロン捕囚が終わり、大半のユダヤ人達は自分の国に帰って行きましたが、そこの暮らしに慣れた人たちはペルシャに留まりました。しかし、なんとそこにはユダヤ人達に復讐心を持つアマレク人という人たちの生き残りのハマンがいたのです。彼は計略を練り、総理大臣になり、自分の積年の恨みを晴らすべく、ユダヤ人滅亡計画に動きました。

 

しかし、神様の憐れみと、それぞれの信仰による決断によって防がれ、ついにハマンは処刑されました。しかし、ハマンが先に発布していたユダヤ人滅亡のための法案は有効なまま。現実エステルやモルデカイからしたら、彼らの功績上彼らのいのちは守られます。しかし彼らは同胞の神様の民が滅んでいく事を良しとできず、死を覚悟してもう一度王に嘆願し、ユダヤ人を救うための法案を新たに発布する事となりました。そうしてユダヤ人たちはいのちを得、彼らはこの喜びの知らせを急いで各地に、各言語で、ペルシャ帝国中に広げました。

 

ここからが↑の出来事。神様の啓示によってアハシュエロス王はモルデカイに知恵を与え、新しい法案を出しました。が、それでも反ユダヤ主義、というよりもいつの時代にもいる「神様に逆らう者たち」がユダヤ人たち(神様を信じ従う人たちとも言えます)に最後の抵抗と言わんばかりにハマンの法令によってユダヤ人を殺そうと動く者たちが出ました。

 

神様に従う人と、神がどうした?俺は俺だ、という人たちのぶつかり合い。結果はどうだったか。ユダヤ人の内に働く神様を知ってか、ペルシャ人たちはユダヤ人を恐れ、ユダヤ人たちを助けました。しかし、やはり一部の人たちはユダヤ人たちに敵対し、立ち向かってきました。そこでユダヤ人たちは町々でグループを造り、彼らに立ち向かい、シュシャンの城で500人の敵を滅ぼし、ハマンの子10人を打ちました。もちろん、ユダヤ人たちはモルデカイの出した指示のように、あくまで自分たちに襲い掛かる敵に対して自衛をしたに過ぎず、彼らの家財を奪い取る事もありませんでした。神様の救いの機会を彼らは逃してしまうのです。

 

同様に私たちは世にあって同様に、多くの戦いがあります。反ユダヤ主義者たちがユダヤ人たちに、いや神様自身に反抗し戦いを挑んできたように。それは霊的な事であったり、もしくは身の回りであっても、時にキリスト者としての信仰ゆえに、どうしてもぶつかり合う事もあります。もしくは思い煩いによって主よ、なぜですか、何なのですか?これは、と思わされることもあります。もしくは終わりの時代が近づけば、現実に迫害、キリスト者に立ち向かう権力、国、反キリスト者たちが多く起こってきます。

 

ではどうしたらいいのか?ユダヤ人達は、いつ敵が来ても戦うために十分な備えをしていました。彼らは断食し、祈り、しかし無防備になる事がないようにしっかりと武具を用意していました。目の前の現状に振り回されるのではなく、彼らの取った最大の武器は、神様に信頼するという武具でした。

 

モルデカイもエステルも、ユダヤ人たちも、ハマンにすでに勝利された神様に信頼したのです。そして神様に信頼して具体的に行動に出た彼らの内に神様は働かれ、敵に恐れを生じさせ、ユダヤ人達への剣を収めさせ、また彼らの内に神様ご自身が働かれ、ユダヤ人を囲う一切の敵を打ったのです。

 

私、これはとても大切な事だと思います。私たちクリスチャンは完璧ではないのです。神様が私たちの内に働かれるから、住まわれるから、私たちは平安であり、またこれらの戦い、諸問題、私たちを囲う敵に打ち勝つ事が出来るのです。彼らのように救われたからもう大丈夫、と無防備で私たちはいてはいけないのではないでしょうか?

 

パウロは「救われている」クリスチャンに向けて、あなたがたは救われているのだからもう、臆せずじっとしていなさい、とは言わず、「主にあって、その大能の力によって強められ」ること、「悪魔の策略に対して立ち向かう事が出来るために、神様の全ての武具を身につける」こと、「しっかり立ち続ける」事、「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈り、絶えず目を覚まし」ていて、「全ての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈り続ける」事を勧めます。

 

私たちは世にあって歩むその備えをしているでしょうか?私たちはどれだけ神様への信頼という武具を持っているでしょうか?神様に信頼する、という事は自分自身の主権を神様に明け渡す事、悔い改める事、神様に自分自身をお返しする事です。神様が最善をなしてくださる、この私のために、ご自分の御子イエス様のいのちを、私の罪の身代わりにしてまで十字架に架け死なせるほどに愛されている、この神の御子という最高の存在のいのちを差し出されてまで取り戻された神様のご計画なのですから、どうして疑うことができましょう。

 

私たちは罪・神様を神様とせず自分のものとする罪の根を残してはいけません。実は神様は昔からハマンの部族・アマレク人を打ち滅ぼしなさい、とイスラエルの民にさんざん命じていながら彼らはそれをせず、その結果、そのアマレク人がいつもイスラエルの民を苦しめる結果となった。そしてその残党であるハマンが結果、このユダヤ人たちを危機に陥れたのです。そう、これは聖絶の戦いだったのです。そして聖絶したらどうするか?それは神様にお返しする、その時、そこが神様の地となるのです。神様がそこに働かれる時いのちが広がるのです。

 

私たちも本来彼らのように柱に、十字架に架けられ死ななければならない、聖絶されなければいけない存在でした。しかし、イエス様の十字架によって私たちの罪は赦され神様のものとされたのです。ですから、私たちはもし神様に従えない領域や、罪的な性質があるなら、悔い改めつつそこを神様にお返ししましょう。罪がきよめられるところに神様の祝福は広がります。私たちはせっかく滅ぼされるべき民から救われる機会を得たのに、これを逃してどうしますか。この御子イエス様のいのちによってかちえた勝利を逃してどうします?

 

キリストの十字架の前にはサタンも、あなたの思い煩いも、悩みも、敵も、あなたに手を出すことはできず、あなたを打ち倒す事も出来ないのです。

 

ですから今日、神様の前にもう一度帰り、いつも主の前にひざを折り、祈り続け、また御言葉によって養われましょう。いや、まずこの救い、永遠のいのち、神様の子とされる特権をいただこう。これに勝るものはない。もうあなたは神様の御手の中にあるのだから、この神様に信頼し歩もう。あれやこれやの武器を取る前に、主の前に遜り立ち返ろうではありませんか。私たちは明日も、明日も、十字架の希望を握りしめつつ、この光を世に出て行き輝かせようではありませんか。