「愛する人々よ。私たちの主イエス・キリストの使徒たちが、前もって語ったことばを思い起こしてください。彼らはあなたがたにこう言いました。『終わりの時には、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう、あざける者どもが現われる。』この人たちは、御霊を持たず、分裂を起こし、生まれつきのままの人間です。しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。」
ユダの手紙17-21節
私たちを支えるのは、経験や知識ではない、自分たちの能力でもない。それは神様ご自身に他ならない。神様ご自身が私たちを、あなたを保証し支えてくださっているからこそ私たちは生きられる。御子イエス様の血・いのちのゆえに。あなたはこれをどう受け止めているだろうか?
さて、↑はユダという人が諸教会に書き送った手紙の一部です。あ、ちなみにイエス様を銀貨30枚で討って裏切ったユダではありませんよ?それならそれで驚きですが残念ながら違います。イエス様の弟にあたるユダ。イエス様は聖霊様によってマリヤの胎に宿ったわけですから血が繋がっているわけではありませんが、イエス様の育ったマリヤとヨセフの家庭に生まれ育った、という意味で弟、という事です。
今、彼のこの手紙を書いている時は、イエス様がすでに十字架上で死なれて後復活され、天に昇られて後の時代。教会が誕生する一方で、ローマ帝国の支配、偽りの教えが蔓延る相当な厄介な時代の中でした。
特に有名なのは、現在もその一端が垣間見れますが、グノーシス主義というもので、2つ問題があったのですが、まず第1に、肉体は悪なのだからと禁欲主義になり、霊的なことだけを追い求め、肉体に与えられた恵みを否定し、霊的なことがらを追及するあまり神秘主義に陥りました。もう一つの問題は、霊的な知恵に目覚めることが重要なのであって、霊的な知恵の領域に達することができたなら、あとは肉体のおもむくままに生きても大丈夫だと考え、彼らは放縦な生活に陥っていたわけです。そんな彼らにユダは警告の手紙を書いたわけですが、その一部が↑。
そもそもの話、何でこんな色んな教え、考え方が出て来たのかと考えると、結局彼らだって救い、幸せを願ってはいるんです。ローマ帝国の支配という現実もあるし、迫害だってある。何が本当で何が正しいのかを見失っていたのも一つ。神様を愛していると言いながら、自分の価値観を神様に押し付ける宗教家が形を変えてきているのも一つ。ただ、いずれにも言える事は根本的に神様が抜けているんです。
ローマ帝国の支配という現実の前に神は沈黙し、何もしない、だからもっとこうしたらいい、ああしたらいい、と色んな形、宗教行為や思想を生み出していく。でもその根本に大切な事が抜けているのです。それは神様そのものの偉大さを、神様はそこいらの偶像、息もしていない、何もできない偶像や、人の造りだした思想と並列にして、見失ってしまっていたのです。だからこそ、神様が信じられなくなっていった。神様を取り除いた生活を「誰が」保障し、支えることができるだろう?人間?思想?経験?それは絶対ではないのです。
でもこれ、昔の話だけではなく、神様を信じていようといまいと、クリスチャンであろうとなかろうと、本当に陥る話なのです。神様ご自身がどんな方なのかを見なければ、そこを失っては、どんなに知識があっても、良い行いをしても、そこに神様のいのちはないのです。
どんなに↑のグノーシス主義のように、霊的であろうと「宗教行為」を行っても、神様を無視して何の意味があるだろう?自分を高める?違う、私たちは神様を崇めるため、栄光を現すために造られた。神様を神様とし、神様の恵みの中を歩む者として。私たちは神様の恵みによって生かされるのに。逆に救われたから何でもしていい?それはせっかく神様が贖ってくださったいのちをどうして神様を追い出しないがしろにするのだろう?私たちは神様ご自身の愛を見失っては本当の意味で生きることはできず、罪に縛られサタンに縛られ、神様の祝福を失っていく。
この手紙を書いているユダという人だって、こんな偉そうなことを書いていますが、まだイエス様が十字架に架かられる前は、非常に現実的で、厳しい教えをされたイエス様の元を離れて行った弟子たちや群衆にもっと奇跡を見せて呼び集め、ローマ帝国打倒を果たすよう説得するくらいでした。人々が、私たちが求めているのは神様の祝福ではなく、現実の問題を打ち破る存在である、と。
でも、仮にローマ帝国を打倒しようとも、その人たちがいのちを得なければ、一時的な解決、喜びで終わって滅びては何の意味がない。いや、神様が彼らの内に建て上げられる愛、御心がなくばどうして本当の平安、喜びの日が訪れるだろう。事実、福音には力があり、ローマ帝国はついに国教化していったわけですしね。信じてたって何になる?いえ、神様ご自身が彼らを討ち滅ぼす以上に大いなる御業をなした。そして今全世界にまでその福音は広がっている。
私たちは神様に救いを求めるよりも、自分の欲求要望を求める。でも、神様の元にはそのすべてがあるのです。神様は、神様を捨て離れ、この大いなる恵みを失いいのちを失い、その罪ゆえに神様と断絶されてしまった私たちを、その罪の底から救い出すべく、ご自分の御子イエス様のいのちを身代りにし、十字架上でその罪の代価を支払わせたのです。あなたを偽りの世・サタンの見せる偽りの現実から、何より神様と断絶されてしまった究極のどん底から、裁きの現実から救い出し、神様の子とするために。
そして、全ての天にある霊的祝福をあなたに与え(世では与える事の出来ない)、御国を受け継ぎ、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与え、あなたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることが出来るようにして下さるのです。神様ご自身が。ここに、この救いの中に、御子イエス様による救いに全てがあるのです。
だからユダは↑のように語るのです。「自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい」と。あなたを建て上げるのはこの御子イエス様の十字架によって和解された神様の働き、あなたの内に聖霊様が働かれ、導かれる。あなたの内に御子イエス様にある憐みが溢れるのです。私たちはこの十字架の憐みの中、愛の中、生きる者とされたのです。
もしかしたら↑のような話は現実感を感じない人がいるかもしれない。それが分からなくてもいい、でも私たちはあなたを生かすためにご自分の御子イエス様のいのちさえ惜しまず詩に渡すほどにあなたを愛する、その御子イエス様のいのちによって招かれたこの素晴らしい聖なる神様との関係の中に生きよう。どんなことがあっても。あなたを見捨てない神様があなたと共にいる。だって見捨てるくらいなら、裏切る私たちなど見捨てて十字架など架からず、降りたでしょう、それでもあなたをとりなし祈られていた。いや今も祈っておられる。私たちはこの方に祈りをささげ、この方の養いの中歩もうではありませんか。