「すると、主が夜ソロモンに現われ、彼に仰せられた。『わたしはあなたの祈りを聞いた。また、わたしのために、この所をいけにえをささげる宮として選んだ。もし、わたしが天を閉ざしたため雨が降らなくなった場合、また、いなごに命じてこの地を食い尽くさせた場合、また、もし、わたしの民に対して疫病を送った場合、わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。今や、わたしはこの所でささげられる祈りに目を留め、耳を傾けよう。今、わたしは、とこしえまでもそこにわたしの名を置くためにこの宮を選んで聖別した。わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。』」
Ⅱ歴代誌7章12-16節
神様は驚くべきことに私たちの祈りを聴いてくださる。どこかの神社にお賽銭をしたら聞かれるようなわけではない。何か徳や修行を積んだら、厄払いをしたら祈りを聴かれるわけではない。神様は私たちにその御目と心を向けておられる。この恵みを覚えていよう。いつも神様を求め続けよう。
さて、↑のことばは、紀元前のイスラエル王国3代目の王、ソロモンが神殿を建てた際に、神様に祈りをささげた、というよりも、神殿を建てる事で、このイスラエルの内に神様が住まわれ、神様が治め、神様の御心をなしてくださることを願い求めた、そのことに対して神様は↑のように答えられたのでした。
この神殿は諸外国もうらやむほど絢爛豪華な神殿となりました。エルサレム神殿と検索でもかければ当時どれだけの物だったかわかるでしょう。それほど素晴らしい神殿をソロモンは建てたのでした。
じゃあ神様は↑のように祈りを聴くよ、と応えられたのは彼が本当に素晴らしい神殿を建てたからか?私たちも立派な行いをすれば私たちの祈りを聴いてもらえる?そうではないんです。神様は別に何か物の中に納まる方ではありません。ソロモン自身も「それにしても、神ははたして人間とともに地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです」と告白するほど。
神様は、私たちの想像する範囲に収まる方ではない。私たちの行いに支配される方ではない。これだけ善行を積んだら、これだけ献金を捧げたら(日本的にはお賽銭?)しょうがない、祈りを聞いてやろう、そんな神様はないのです。
私たちはそこを良く勘違いして、神様を自分勝手に遠い存在にしてしまう。神様は私たちを愛し、その目を、その心を私たちに向けてくださっているのに、勝手に私たちは神様に祈る事は、頼る事はおこがましいと考え、距離を置く。でも神様は、私たちが神様により頼むことを何より求めておられるのです。
だから、ソロモンが最初にも書いたように、神様ご自身がこの国に住まわれる事、そして私のお心がなる事ではなく、神様の御心によってこの国を治め、なしてください、と神様ご自身を彼の国、いや彼自身の生涯に招き入れたのです。あなたなしでは私は何をすることもできない、生きて行くことは何の意味もない。神様の御心が我がうちに現されないことほど空しく無意味なものはない、と。まあ、後に彼は高慢になって神様を追い出し始めるのですが。この彼を神様は喜ばれたのです。神殿を喜ばれたのではない、彼のその悔い改めと祈りを何より喜ばれた。あれください、これください、ではなく、神様ご自身のご臨在を、御心がなる事を願った事を。
神様は、「もし、わたしが天を閉ざしたため雨が降らなくなった場合、また、いなごに命じてこの地を食い尽くさせた場合、また、もし、わたしの民に対して疫病を送った場合、わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう」とおっしゃられた。
わたしが天を閉ざし…それは、私たちの罪ゆえに神様と断絶されてしまう状態。問題や試練の中にあって神様ではなく他の神々を求める時、その罪ゆえに神様の祝福がせき止められてしまう。でもそれは神様は祝福をしたいのに自分でこれはいらない、としているだけ。神様は本当は私たちの内に祝福を、恵みを注ぎたいのに私たちがそれをいらない、と拒否してしまうのです。しかし、神様はそれであなたを見捨てるわけではなく、あなたが悔い改めるなら、わたしに帰るなら、「わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう」とおっしゃるのです。
神様が癒される!何という素晴らしいことだろう。私たちの罪に傷つき倒れてしまったものを癒し、また私たちと神様の関係を、罪の囚人と神様の関係から、神様の子と神様の関係に癒されるのです。親しい関係に招き入れられるのです。
しかしそれでも私たちは神様をないがしろにし、求めず、滅びの道に突き進む。サタンの手にとらわれ、罪に縛られ。私たちは神様の愛によって、その養いの中で生きるもの、それはそうでしょう?赤ちゃんは親から養われなければ生きることなどできません。神様の愛、いのちを注がれて初めて人は生きるのです。それにもかかわらず、私たちは神様を拒否した。もう見捨てられても仕方ない。
しかし神様は見捨てなかった、その断絶され閉ざされた扉をご自身の手で開かれ、御子イエス様を送られた。この断絶された関係を修復し癒すために、私たちの罪を身代りに背負われ十字架に架かられ、身代わりに罰せられ死なれた。でもそれで終わらずに、その身代りの死を良しとして受け入れられた神様は、御子イエス様を復活させてくださり、この御子イエス様の十字架による贖い、救いを自分の罪のためと悔い改め受け入れるなら、私たちもこの復活の恵みに与り、神様の子とされる。癒されるのです。このイエス様のいのちによって、私たちと神様は繋がられるのです。親子関係に。
この御子イエス様のいのちを投げ出すほどに愛された神様をどうして私たちは疑うだろう?どうしてこの神様に信頼せずにはいられるだろうか。あなたと神様は、御子イエス様のいのちによって結ばれているんです。私たちはもっと祈って良いんです。もっと神様に頼って良いんです。もっともっと神様を求めていいんです。依存?私たちは神様なしには生きていけないし、神様は造られた者としてあなたが神様の元に帰る事を何より望まれ、あなたの内に豊かな恵み、愛を、御心を注ぎたいのです。あなたはこの御子イエス様のいのちによってその愛を神様から誓われ、このいのちによってあなたは新しく形づくられ、導かれていくのです。
神様はソロモンだけではなく、あなたにも「今、わたしは、とこしえまでもそこにわたしの名を置くためにこの宮を選んで聖別した。わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある」とおっしゃられる。御子イエス様ゆえにあなたの内にイエス様は住まわれ導かれる。とこしえに。その御子イエス様ゆえにあなたに今日も、いや24時間365日あなたを忘れず、その心と目はあなたに向けられている。
今日、私たちは神様をお迎えし、純粋に神様を慕い求め続けようではありませんか。神様はそれを何より喜ばれる。今日も待っておられる。ここにすべてがある。あなたは誰を神様とし歩みますか?この神様に何を求めますか?御子イエス様のいのちによって結ばれたこの関係をもはや何物も引き離す事はできない。ただただこのイエス様に信頼し歩み続けようではありませんか。