ー神様を求める事をやめてはいけないー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですか、と尋ねた。ナザレのイエスがお通りになるのだ、と知らせると、彼は大声で、『ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください』と言った。彼を黙らせようとして、先頭にいた人々がたしなめたが、盲人は、ますます『ダビデの子よ。私をあわれんでください』と叫び立てた。イエスは立ち止まって、彼をそばに連れて来るように言いつけられた。彼が近寄って来たので、『わたしに何をしてほしいのか』と尋ねられると、彼は、『主よ。目が見えるようになることです』と言った。イエスが彼に、『見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです』と言われると、彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。」

ルカによる福音書1835-43

 

私たちは神様の憐みを求める。でも神様は私たちを愛しておられ、私たちに関心を持ち、その愛ゆえに神の御子イエス様を人として生まれさせてまで、あなたの側に住まわせた。あなたにいのちをもたらすために。神様はあなたを愛してすぐ傍におられるという事を忘れてはいけない。この機会を逃してはいけない。

 

さて、↑の箇所は神の御子たるイエス様が人となって生まれてこられ、と言ってもイエス様は天地創造・この世界ができるよりもはるか昔より存在していたのですが、人々の間に住まわれ、生きられた頃の話。

 

ある目の見えない男性が物乞いをしていました。彼はどこかでイエス様の噂話を聴いたのでしょう。目の見えない人、耳の聞こえない人を癒されたり、悪霊から解放したり様々な奇跡を聞いたのでしょう。彼はイエス様が通りかかるのを知ると、大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫ぶのでした。ダビデの子、というのは救い主はダビデの家系を通して生まれてくると言う預言を知っていたからか、この救い主が今わたしの元に来た、この機会を逃したくなく必死ですがりつくのでした。

 

しかし、当時このような人は、親か本人が罪を犯したためにそうなる、と考えられていた(日本的には因果応報的に)ので、周りの人たちが、お前など救い主に憐れまれるはずがないじゃないか、と言わんばかりに彼を止めようとします。しかし、ますます叫び求める、その彼を見たイエス様は彼を連れてくるように言うのでした。

 

ここで面白いのは、「彼が近づいてきたので」イエス様は「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねた、というのです。イエス様はもちろん、彼を癒す準備はできていた。だから彼を近くに呼び寄せた、いや、彼のためにイエス様はこの町を通られたのかもしれない。だってイエス様は無駄な事などなさらない。イエス様はこの人のためにも、人となって来られたのだから。目の前に失われた人がいるというなら放っておくはずがないのです。

 

ただ、イエス様は彼自身がそのイエス様の愛を求める事を何よりも願っておられた。「あなたは何をしてほしいのか」と。物乞いをしているまま生きる、一食のパンを買うお金か、それとも、治り、新しいあなたとして生きる、神様の憐みによって生きること望むか?あなたの望む憐みは何か?そう問うたのです。そして彼はイエス様ご自身の憐みによって生かされる事をのぞみました。お金ではない。癒されたところで今更どうやって社会復帰できる?現実を見ようよ、金があれば生きていけるよ、とは考えなかった。彼はイエス様が憐れんでくださる、このいのちの内を歩もう、と願ったのです。

 

イエス様は、私たちの一部を解決する、癒すために来られたのではない、私たちが神様神様行ってないでもっと現実を見ようよ、神様に何ができる?と疑い、他の存在もしない神々、思想に頼り生きる、偶像に頼り生きる私たちを、死にゆく私たちを、罪のゆえに滅びゆく私たちを贖い救い出すために、そんな私たちを憐れまれ、人となって来られた。私たちのように身勝手に神様を捨てるような人をイエス様がどうして憐れむ必要があるだろう?彼が周りから、こんなものイエス様の憐みを受ける資格がない、とはじかれようとしていたように、私たちだって、本来その憐みなんか受ける権利などなく、そのまま神様の元から切り捨てられ、永遠の裁きへと向かってもおかしくはなかった。

 

しかし、イエス様の方からかの盲人の住むところに来られたように、私たちのところに来られたのです。そして私たちを罪の奴隷、滅びの墓の中から引き上げるために、私たちの罪の身代わりに死に、死して葬られ、陰府に降って行くことを選ばれた。私たちの身代わりに十字架に架かられ。そして、この身代りの裁き、贖いを良しとされた神様は御子イエス様を復活させてくださり、それによって、私たちもまたこの裁きから、滅びの穴から救い出される、その救いのわざを完成されたのです。

 

私たちが自分のこの罪の状態、罪の奴隷となっている状態を悲しみ、イエス様の憐みを、救いを求めるとき、イエス様を救い主として信じ受け入れる時、あなたはこの最高の憐みを受け、罪の帳消しと共に神様との和解、永遠のいのち、神様の子とされる。復活のイエス様はあなたと共によみがえられあなたの内に住まわれ、あなたにその御心を、愛を現してくださり導いてくださるのです。これ以上の奇跡、憐れみはないのではないか。ここにいのちがある、ここに全てがあるのです。

 

イエス様はあなたに近づき「あなたは何をしてほしいのか」と尋ねられる。いや、あなたを御側に呼ばれ、あなたが近づく事を、何よりも待っておられる。あなたがイエス様の憐み、十字架による救いを受け、まことの憐みを受ける事を。ここに全てがある、そのことを信じて。イエス様があなたの内に最高の御心をなしてくださると信じて近づく事を。

 

「あなたは何をしてほしいのか」。あなたはこの問いかけに何と答えますか?このいのちの関係に近づくように、といのちがけの愛をもって招かれたイエス様の招きにどう応えるだろうか?