「さて、モーセは主に申し上げた。『ご覧ください。あなたは私に、「この民を連れて上れ」と仰せになります。しかし、だれを私といっしょに遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身で、「わたしは、あなたを名ざして選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている」と仰せになりました。今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えてください。そうすれば、私はあなたを知ることができ、あなたのお心にかなうようになれるでしょう。この国民があなたの民であることをお心に留めてください。』すると主は仰せられた。『わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。』それでモーセは申し上げた。『もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。私とあなたの民とが、あなたのお心にかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちといっしょにおいでになって、私とあなたの民が、地上のすべての民と区別されることによるのではないでしょうか。』主はモーセに仰せられた。『あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名ざして選び出したのだから。』」
出エジプト記33章12-17節
私たちは神様は憐み深い神様。私たちの名前を憶え、私たちを呼び、ご自身の恵みの世界に招かれる。それは世とは別の素晴らしい恵みの世界。神様ご自身があなたの内に栄光を現されるすばらしい交流の中に私たちは招かれている。私たちはこの招きにどう応答するだろうか。
さて、↑は昨日の続きになりますが、神様の憐みによってエジプトの奴隷として捕らえられていた中から、救い出され、導き出され、神様が共に歩まれる新しい旅路にイスラエルの民はついていた。目指すは神様が彼らの先祖たちに与えると約束されていた地。乳と蜜の流れる地(要するに神様がご自身の御心、栄光によって彼らを豊かにするということ)。でも、空約束ではなく、神様は彼らと契約を結ばれた。彼らを宝の民する、と。宝、と宣言された。
しかし、モーセがその契約の詳細、神様の恵みの話を山で聴いている時に、あまりにいつまでもモーセが帰ってこない、神様も何も語らないのにしびれを切らせ、イスラエルの民は、自分たちの思う時に応えない神など、本当はいないんじゃないか?と思い始めたのです。つい数日前まで神様の素晴らしい栄光を見ていたのに、奇跡を見ていたのに。すぐに忘れる。それは確かに彼らの求める神はある意味ではいない。自分たちの都合のいいように応えるだけの操り人形的神など存在はしない。神様は神様の最高の御心を私たちに現してくださるのだから。だから彼らは神様をある意味で退け、自分の都合通りに動く神を造るように、とリーダーの補佐であるアロンという人に金の子牛像を造らせ、礼拝した。
それに神様は怒り悲しみ、もう彼らとは進まない、御使いはまあ遣わそう、でも私はもうあなたがたとは進まない、とおっしゃられた。それを民は痛く悲しみ、重いことととらえ悔い改めた。それで改めてモーセはとりなし祈り始めた、その前半の方が↑。
さて、モーセは↑のように祈ったわけですが、モーセの願いは、昨日の内容とも重なるのですが、ここに見るように、神様ご自身がモーセ、イスラエルの民と共におられる、ご臨在し、ご好意・恵みを注がれる事によって「地上の全ての民と区別される事」にあります。もっともっと神様の栄光を、素晴らしさを現してください、と。
これだけを見るとモーセはずいぶん身勝手な祈りをするなあ、他の人たちと区別して特別にたくさん祝福すれば、あなたのことを信じるよ、と言っているように聞こえない事もありません。自分たちがよければそれでいいのか?と感じてしまうところです。民をとりなす、祝福の基となる役割がイスラエルに与えられているのにそれはないでしょう、と。でも、そうではないんです。いや、これこそ祝福の基とされたイスラエルの民が問われている事であり、またイエス様の十字架により贖われ、神様の家族とされ祭司とされた私たちに問われている事なのです。
そもそも私たちは金の子牛を拝んだイスラエルの民のように、神様の恵み、ご好意に与る資格はありません。聖書にあるレビ記19章2節にこうあります。「あなた方の神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なるものでなければならない」と。当時はいけにえを捧げる事などによって罪の赦しを頂いていましたが、罪ある者は聖たりえません。しかし、当時でいうならいけにえ、私たちは御子イエス様の十字架の贖いを信じる事によって聖とされます。そして私たちは神様のいのち溢れる恵み、ご好意を受ける事ができるのです。
でも信じても大変な事はいくらでもあるではないかと思います。イスラエルの民も荒野で苦労しますし、この先の約束の地についても戦いの連続。いつも信仰の決断を必要とします。そう、この聖である事と言うのにはもう一つの側面があります。それは「神様に従う」という事です。仮に他の人たち、神様を信じていない人たちと同じように苦しみの中に、苦難の中に歩む事があっても、神様に従う事を神様は願っているのです。↑にあるように、神様ご自身が、共に進まれるから。
でもそのような状況下で神様に従うのがいかに困難かモーセは知っているから、彼ら、私たちが道に迷うことがないよう、神様の道を教えて下さい、あなたの事を知り、神様のお心に叶う事ができるようにと願っているのです。自力ではできない、神様が助けて下さい、と。神様の道は私たちにとって大きすぎ、広すぎてわからない事がある、でも神様の道は不変。必ず勝利に、命に向かって行く、だからその道を教えて下さい、と。
いやそれだけではない、他の人たちと区別してください、と。それは最初に申しましたように差別してください、と言うわけではなく、仮に他の人たちと同じように苦しみ・苦難の中に歩むことがあっても、周りの人たちが「この人には確かに、この人が信じている神様・イエス様がいる」と認めざるを得ない程、神様がモーセや私たちと共におられ働かれ、神様の平安と愛、喜びでモーセ、私たちを満たすことで、それを見てまわりの人たちが神様を認め、神様に立ち返る事を願ったのです。そしてその祈りは確かに神様の御心に叶い、そうしてくださる、と神様は↑の最後で約束されているではありませんか。
神様は↑でお約束されているように、いや御子イエス様を十字架に架けてまででも私たちを愛された神様は共におられます。いや、もっと厳密に言うなら↑で神様の「顔」が共にある、とおっしゃっています。すなわち私たちのことをよく見ておられ、私たちの声を良く聴いておられるのです。その神様は私たちに安息、平安の計画を用意され、将来と希望を与えてくださるのです。
モーセは荒野の苦難の中いつも、神様のご臨在に近づき、あなたのお心を教えてください、と近づきました。そしてその道に応答しました。これぞ礼拝です。私たちも日曜、また普段からいつもこの神様に近づき礼拝を捧げ、神様の御心を求め、その道を求め、従おうではありませんか。神様は苦難の中であってもその顔と共におられ、安息に、勝利に導かれるから。そのためにあなたの名前を呼び、あなたを選び出されたのですから。
御子イエス様をあなたの罪の身代わりに死なせてまでなぜあなたを取り戻されたのか?そのあなたを世・罪と区別し、神様不在の暗闇、悲しみ、痛み、何より裁きという悲しみの墓場から引き上げ、神様の子として恵みの世界に引き入れるために。イエス様のいのちをかけてまでも引き戻されたんですよ?招き入れられたんですよ?どうして恐れる必要がありますか。
最後は私たちの決断です。世から離れ、罪から離れ、自分の思い通りになる世界を求めるか、神様の栄光が現される恵みの中を歩むか。神様はいつでもあなたを待っています。最後の裁きの日が来るまでは。私たちは神様の御心が、ご栄光が圧倒的に現される事を祈り求めよう。私の願う通ではなく、ただ御心が成りますように、と。十字架に示された神様の愛を見上げながら。