「さて、モーセは主に申し上げた。『ご覧ください。あなたは私に、「この民を連れて上れ」と仰せになります。しかし、だれを私といっしょに遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身で、「わたしは、あなたを名ざして選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている」と仰せになりました。今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えてください。そうすれば、私はあなたを知ることができ、あなたのお心にかなうようになれるでしょう。この国民があなたの民であることをお心に留めてください。』すると主は仰せられた。『わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。』」
出エジプト記33章12-14節
地図が無ければ目的地に安全にたどり着くことはできない。私たちは誰かの導きなしには本来あるべき道に、私に、あなたになる事はできない。私たちは神様のご臨在を、導きを求めて行こう。神様は、あなたをいのちの道に導いてくださるのだから。
さて、↑の会話は、かつてエジプトに奴隷として捕らえられていたイスラエルの民が、神様の憐みによって救い出され、しかも神様が、彼らをご自身の宝の民!、宝!と宣言され、ご自身の民に(分かりやすい言い方をするなら家族に)加える、と契約を結ばれたのでした。ところが、その話をモーセと山の上で具体的にしている時、いつまでも帰ってこないモーセを心配し、いやそれならまだいい、自分たちの思う通の結果を与えない神様を捨て、これだけ救い、養い、奇跡を多く体験しながら、神様を捨て、自分の思う通になる神を造るように、モーセの兄に命じ、なんと、金の子牛像を拝み、神としてしまうのでした。ちなみに子牛というのは当時のエジプトの神の一つとされている。牛が神、というのもおかしな話ですが。
それ湯に神様の怒りが燃え上がり、裁きと共に、神様の臨在が離れていました。御使いは遣わすからあとは好きに行くがいい、と。しかし、彼らは神様がいなければ意味がない、とこの事を悲しみ、重くとらえ、民が悔い改め、モーセが執り成し祈ったその祈りを聞かれ、雲の柱が、神様のご臨在が戻ってきました。しかし、まだ雲の柱がいつも神様と話す天幕に降りてきたにすぎず、厳密には共に進むという確約をモーセは得ていないのです。だからなお↑のように、モーセは祈り求めるのです。
「ご覧ください。あなたは私に、『この民を連れて上れ』と仰せになります。しかし、だれを私と一緒に遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身で、『わたしは、あなたを名指しで選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている』と仰せになりました。今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えてください。そうすれば、私はあなたを知ることができ、あなたのお心にかなうようになれるでしょう。この国民があなたの民であることをお心に留めてください」と。
モーセは、神様が共に進まれる事を願うのでした。まだ私と一緒に誰が行くのかを伝えて下さらない、というよりも、今日の箇所全体を見てもお分かりのように、あなたが一緒じゃなければだめ、あなたが一緒にいる場所じゃなければ全く行く意味がない、そう彼は考えたのです。それすなわち、神様のご臨在、というものです。神様のご臨在なしだったらどこにいても意味がない。
だってそうでしょう?本来私たちは神様と共に歩むからこそ豊かなあらゆる祝福、たとえ疲れ果てても共にいて慰め励まし、時に導かれるわけではないですか。そもそも神様はそのように私たちを造られたわけですし。最初にも書きましたが、地図・私たちの導き手がなければ私たちは本来行くべき道にはたどり着けない、本来神様が計画しておられる最高のあなたにはなりえないのです。どんなに自分たちで計画を立てようと、神様の御心には決してかなうはずがない。だって、神様はあなたの造り主、設計者なのですから。
神様は一応は御使いを送り、約束の地を与えてくださるという。でも、モーセは形だけの神様ではない、それこそイスラエルの民が自分の都合に会う偶像を求めたような自己中心、形だけの存在ではない、彼と、またイスラエルの民と人格的な交流のある豊かな関係を願ったのです。
彼はそれこそ↑で何度も何度も、元々のことばでいうなら、「お心にかなうなら」と言います。ご好意、祝福、恵みとも訳す事もできるこの言葉を何度も繰り返しました。↑を見れば、もうあなたのご好意に預かりたい、と必死な姿が見えるではありませんか。私には、私たちにはあなたが必要なのです、と。
でも実際、この地上の歩みは困難だらけ、神様あなたは私たちのことを本当に愛しているのだろうか?ならどうしてこのように苦労しなければいけないんだ?と思うこともしばしば。しかし神様は、決してそのご好意を私たちに注ぎたくないわけではないのです。
くしくもモーセが「あなたご自身で『わたしは、あなたを名ざしで選び出した・・・』と仰せになりました」と言いましたが、まさにその通り。神様はモーセの名前を、いや私たち一人一人の名前もよく知っているし、親しく知っている、友としてよく知っておられるのです。
しかも、宇宙を作られた際に、星の数は地球上の砂の粒の総数よりも多いと言われていますが、それにもかかわらず、その砂の粒より多い星々の中のたった一つの星である地球、その地球上にいる無数の人間の中の1人であるモーセを、私たちを良く知っている、心に留めている、ご好意を持たれているのです。なんたる恵みでしょう。これをモーセは求めたのです。ただ、イスラエルの民は自らの思うとおりになる神様を欲し、自ら作り出してしまったがために、神様のご好意から離れてしまったのです。
私が思うのは、神様が私たちの名前をその両肩に、胸に刻まれ覚えておられるという事をよく覚えておく必要性です。神様は私たちの名前を覚え、あなたの名前を覚え、その胸に抱き、恵みを与えたいと思っておられる。だからその私たちを放っておくことができず、ご自分の御子イエス様を十字架に架けられ、死なせてまで、私達といのちの交流を、まことの命の交流を回復させたのですから。
私たちはモーセのように、だからこそ、あなたの道を教えてください、あなたの御心に留めて下さい、と祈ろうではありませんか。もっともっと、神様の御心がなる事を祈ろうではありませんか。神様は、あなたのために御子イエス様のいのちさえ差し出される方ですよ?それほど愛されている神様をどうして疑う必要があるでしょう?神様は、本来あなたに計画しておられた御心のうちに、いや御心の姿に、あなたになるよう、いや回復するためなら、と御子イエス様を差し出されたのです。そのいのちを。
あなたが神様に祈り求めるなら、神様は必ず↑にあるように。あなたに、安息を、いのちある交流が、祝福が、ご好意があなたの内に注がれるから。御子イエス様を惜しまず与える方のご好意が。今日、主に立ち帰ろう。そしてこの新しい一年も、神様の御心がなる事を祈ろう、神様ご自身をもっともっと求めて行こうではありませんか。