ー神様が共におられなければ意味がないー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「主のしもべモーセがこの地を偵察するために、私をカデシュ・バルネアから遣わしたとき、私は四十歳でした。そのとき、私は自分の心の中にあるとおりを彼に報告しました。私といっしょに上って行った私の身内の者たちは、民の心をくじいたのですが、私は私の神、主に従い通しました。そこでその日、モーセは誓って、『あなたの足が踏み行く地は、必ず永久に、あなたとあなたの子孫の相続地となる。あなたが、私の神、主に従い通したからである』と言いました。今、ご覧のとおり、主がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。あの日、あなたが聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。」

ヨシュア記147-12

 

私たちはある意味では自力でいろんなものを獲得できる。が、神様がそこにおられなければ意味がない、そこにいのちはないのです。私たちの歩みは神様によって確かにされる、本当に豊かないのちあるものとされる。これを忘れてはいけない。

 

さて、↑は昨日の続きになります。↑に登場するカレブという人は、犬という意味があり、周りから犬犬と呼ばれて過ごしてきた。しかも、いくら兄弟国とはいえエドム出身。彼の一族は自己繁栄を求め、また神様がせっかく祝福してくださっているのに神様を求めず、神様に祝福されているイスラエル一族に嫉妬し攻撃をし続けいつまでも神様に帰らないエドム一族に嫌気が差し、恐らくイスラエル一族に加わったものと見られます。

 

そんな彼の一族はエジプトで奴隷として捕らえられていました。しかし、モーセと共に神様の憐みによって救い出され、今先祖たちに約束された地に到着したところ、さっそくこの土地を求め、戦いに出て行こうとするわけです。そんな場面が↑の箇所。今日の箇所はエジプトから救い出された40歳~85歳になった今までの旅路を振り返ってのものになります。

 

ということで85歳になったカレブ、そんな彼のエジプトを脱出してから今に至るまでの期間は忍耐そのものでした。この期間、エジプトから出発して間もなく、実は一度約束の地を目の前にしていたのに、他の民の不信仰によって入ることができず、45年近く忍耐してこの時を待っていた。神様に信頼して。荒野をさまよいながら。

 

↑を見ると、85歳になったカレブには非常に強い意志を感じます。ヨシュアがヨルダン川西側の土地を割り当てよう、という時、「ケナズ人エフネの子カレブが、ヨシュアに言った。『主がカデシュ・バルネアで、私とあなたについて、神の人モーセに離されたことを、あなたはご存知のはずです』」と、待ちきれんと言わんばかりにカレブは進み出て、約束を果たしてほしい、と言うのです。

 

別に彼はほかの第一世代は入れなかったけど私は従ったんだから早く譲ってくれ、と言っているわけではない、イスラエルは確かに荒野を歩んでいた、けど、「神様が私を生きながらえさせてくださった」と、神様が共にあったことを喜びつつ、確かに神様が今日まで約束を反故にされることなく導かれ、今約束を目の前にしている、これだけ誠実にその約束を覚えていてくださった神様がどんな土地を与えてくれるか、その興奮を抑えきれなかったのです。

 

カレブにとって約束が果たされるまで45年間待たされたのは、いい迷惑だったことでしょう。なぜ他の偵察隊の不信仰ゆえに信じて行ける、と確信した私やヨシュアまでここから約40年も待たされなければいけないのか。冗談じゃない、と信仰のありそうな人たち、特にモーセとヨシュアで攻め入るとか考えることもできたでしょう。

 

もしくは、そんな自分の信仰にすぐに報いてくださらない神様などいらない!と言って見捨てることも、その道中には自分の出身国でもあるエドムもあるし、愛想をつかして帰るという事もできたでしょう。しかし彼はそれをしなかった。

 

彼は神様がともにいなければ何かの問題に霊的に勝利を納めることはできない、とわかっていました。事実、カデシュ・バルネアで不信仰だったゆえ、神様から40年間イスラエルの民が荒野でさまよう、と宣告された後、じゃあやっぱり行きます、といって勝手に戦いにでていっても神様が共におらず敗北を喫しましたし、仮に自分一人でうまく町には行って生きていくことができたとしても、そこに神様がいなければ、神様の霊的な祝福のない、そんなものは張りぼてに過ぎない、元のエジプトにいた頃やそこに命を見いだせずに飛び出してきたエドムと何の違いがあるのか、と考えたのです。

 

私は神様に贖われた者、私たちで言うなら十字架によって贖われた者、罪を覆われ、神様から離れていた自分ではない、神様がその古い自分を覆われ新しく神様と共に歩むものとされた、それなのに過去に戻っても何のいのちもないということを知っていた、またこの45年の日々に神様の恵みがなかったわけではない、「神様が私を生きながらえさせてくださった」と85歳になる今日まで共におられた、私はこの神様に今生かされている、そのことを喜んだのです。

 

カレブの告白に、自分の45年は不幸だったなどという言葉はありません。確かに彼のこれまでの生涯、戦いの日も平穏な日もあった、でも神様は、約束が果たされるその日だけではなく、神様に従う彼の全生涯に渡り、いつも共にいてくださった、だから例え約束の地の到着が40年先であろうと、この歩みを神様が導かれるならそれがいい、と。神様が私と共にいないなら、私には何の意味もない、と。

 

この45年、いや80年導いてくださった神様が今、待ちに待った約束の地・相続地を与えて下さる、これほどワクワクする事はない、彼は飛び出す勢いでヨシュアの前に進み出たのです。次は神様は私に何をしてくださるんだろう?と。忍耐し続けたカレブは神様の恵み、祝福を一時だけではなく天に行くその日まで祝福して下さいと願い、さらなる祝福を見出していくのでした。

 

私たちはどれだけ神様に期待しているだろうか?私たちは神様に期待せず、疑い、自分の思う通にしない神様など神様ではない、とかつてのイスラエルの民のようにした。でも神様は、私たちを宝の民とするために救い出された、この素晴らしい恵みの世界に引き入れるために連れ出されたのです。私たちを私たちの測り知れない恵みの世界に引き入れるために、救い出すために御子イエス様を送られ、またそのいのちを持ってまで、私たちの罪の償いとしての代価、刑罰・死を十字架上で引き受けられ、死なれた。

 

そこまでしてまであなたを取り戻したかった。どうしてイエス様を信じて何になる?とか救いの価値を下げる必要があるだろう?どうしてイエス様のいのちによって買い戻された、神様の子とされた新しい関係に期待せずにいられるだろう?あなたは御子イエス様のいのちによって買い戻された。この事実を、救いを受け取るからあなたは素晴らしい、いのちある者となる。この神様が共に歩む新しいいのちの内にこそ本当の意味が、いのちがあるのです。カレブの生涯をとことん導かれた神様が、あなたのために御子イエス様を十字架に架けて死なせるほどまでに愛された目的、ご意思にどうして期待せずにいられるだろう?

 

さてみなさん、この十字架・イエス様のいのちという最大の和解金によって買い取っていただいたあなたの内に働く神様の御業に、毎日どのくらい期待していますか?あなたの相続地に、教会に、家庭に、職場に、今日という日に。「神様が共におられなければ意味がない」、イエス様どうぞ私を造り変え、あなたの栄光で満たしてください、あなたの御心を現し、成し遂げてください、と大いに期待して行こうではありませんか。「神様が」、御子イエス様にあって私たちを「生きながらえさせてくださっている」この素晴らしい恵みに感謝しながら。